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○日本語教育・日本語教育学評論

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日本語教育と日本語教育学などで折々に感じたことを発信しています。
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#言語教育

日本語の習得と習得支援(≒教育)をめぐる野生の知性

 野生の知性について書いてみます。「日本語の習得と習得支援(≒教育)をめぐる野生の知性」としました。「日本語の習得と習得支援(≒教育)」には、授業を実践することだけでなく、授業のためのPPTや学生に与えて作業をさせるワークシートなどを作成すること、エッセイ(作文)を添削するときのうまい添削法なども含みます。また、そうした授業教師の技量だけでなく、コーディネータとして優れたスケジュールを策定すること、授業担当教師と適切に連絡したり指示したり相談したりすることなども含みますし、さ

日本語教育の参照枠の下で行動中心のアプローチでやっているとクラス授業はできない!?

 日本語教育の参照枠に基づく教育課程策定の議論では、たいてい、「一人ひとりの学習者によってニーズは異なる」だから「それに対応するためには一人ひとりの学習者のニーズを反映した(テーラーメイドの)教育課程を企画しなければならない」という議論の流れになってしまっている。  これって、(1)クラス授業否定であり、(2)「教育課程開始に先立ってニーズがわかる」主義だし、(3)「日本語学習者は実用的に必要な言語活動ができる日本語だけやればいい」主義、だよね。先の発信や、この3点、皆さん、

である-体とですます-体

 ある原稿を書いていました。その原稿が載る本はである-体となっていますので、である-体で書いていました。一方で、まもなく出版される「親しい仲間」といっしょに書いている本はですます-体です。ぼく自身は、過去5年間くらいは、研究書や研究論文はである-体、日本語教育学関係の本や論考はですます-体で書いています。  今日の原稿は、である-体で書いていたわけですが、ぼくとしては日本語教育学の原稿として書いていました。そうすると、ぼくの考える日本語教育学とである-体がどうもうまく「噛み合

Ambitionって、何?

 きょうは、後期に向けたキックオフ・パーティを同僚としました。すごくいい仲間です。そんな中、一人の先輩が一人の若手に「あなたなんかは、ambitionがあるでしょう。ambitionをもたなきゃ!」と言いました。ぼく自身も、若い人にはしばしば「ambitionをもたなきゃ!」と言っています。その先輩のambitionの意味はやファジーでした。それで改めてambitionについて考えました。  ぼくの言うambitionは「野心」ではありません。もっと、下世話に言うと、この「野

人文学では、科学を包摂する学問がぜひとも必要

 2023年8月9日のTwitter​の足し算。  8月7日に担当している集中コースが終わり、成績処理などもして、その他いろいろ対応をし、やってしまわないといけない会議などもようやく今日終わり、やっとお盆休み?に入ることができる。少し「お勉強」に集中したいと思う。このところは、ベルクソン、ドゥルーズという「真打ち」登場です。  おもしろいのは、ベルクソン→ドゥルーズ×ヴィゴツキーという部分を日本の佐藤公治さんが丁寧に論じてくれている。『ヴィゴツキーからドゥルーズを読む』。こ

「多文化共生の理念と複言語主義は並置してよいものか? 並置するのが適当ではないなら、両者の重なりと相違は何か?」へのChatGPTの答え

 昨日、Twitterとfacebookで以下のような発信をしました。   で、今日、「そう言えば、あの質問にChatGPTだったら、どう答えるかなあ」と思って、やってみた。  600字以内でという注文を入れると、以下。  600字以内でという注文を入れたのは、もっと明快な答えを「出題者」(わたし)は要求しているから。  ChatGPTの答えは、よくお勉強をした優等生の答えですね。そして、冒頭の質問に対しては、これで満点をあげなければなりません。  冒頭の質問はちょっ