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○日本語教育・日本語教育学評論

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日本語教育と日本語教育学などで折々に感じたことを発信しています。
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#第二言語教育

「日本語教育の参照枠」の理念!?

 「日本語教育の参照枠」の「理念」を改めて見てみました。下の【「理念」らしきものの抽出】です。 *以下が、「日本語教育の参照枠」の「最終版」です。https://www.bunka.go.jp/.../hokoku/pdf/93476801_01.pdf  「理念」はこれだけで、後はCEFRのレベル記述の焼き直しだけです。ここまで、見てみての感想。 1.「捉え直し」って何?  以下の2つめの引用箇所((2))で以下のように言っている。ここの「捉え直し」って何? この「捉え

NEJを採用することは新たな教育実践をスタートさせることである!

 日本語学校の主任や大学の日本語コースのコーディネータの最も重要な仕事は、教育企画をどうするかを検討し決定することです。教育企画はコースの目的や目標や取り扱う内容を「指定」するもので、学生たちが何をし何を達成しなければならないか、授業担当の教師が学生たちを支援して何を達成させなければならないかを要求します。つまり、教育企画は、コースで勉強する学生たち、コースで学生たちの日本語上達を支援する教師を決定的に縛るものです。コース全体としても、各課や各ユニットでも。そんな教育企画の仕

日本語教育の内容と方法の論じ方について③ ─ 「わたしたちの実践」の創造に向けて

 日本語教育のために、なぜ教師向けの企画・計画書が重要なのでしょうか。なぜ習得と習得支援の考え方も加えなければならないのでしょうか。このセクションではそのようなテーマをめぐって論じます。 1.Scarcella and Oxford(1992)の言語促進活動仮説 1-1 第二言語の習得をめぐる3つの仮説  第二言語の習得に関しては、以下の3つの仮説が提出されています。筆者流の言葉遣いでごく大雑把に説明します。  そして、第二言語習得研究では、それぞれの仮説を支持する証拠が

日本語教育の内容と方法の論じ方について② ─ 学習段階の解釈について

 「論じ方について①」で、第二言語の習得と習得支援についての考え方を企画・計画書に含めるべきとの議論をしました。また、さらりと日本語力ということも言いました。  日本語技量(Japanese language capacity)、あるいはシンプルに日本語力というのは、どのような知識や技能などがその基盤にあるにせよ、たどたどしく話す状況や語の形式や文の整序性などに問題がある状況や相手の言うことがわからないで何度も聞き返す状況なども含めて、日本語で言語活動に従事する総体としての能

日本語教育の内容と方法の論じ方について① ─ 誰に向けて発信するのか

 言語教育を企画するにあたって参照される基礎資料として、CEFRや、JFスタンダードや日本語教育の参照枠などがあります。後2者はCEFRの焼き直しなのでCEFRを直截に読める人にはあまり価値はないと思います。また、後2者はCEFRの邦訳に基づいて作成されており、そもそもその邦訳での各レベルの訳が十分に原著の趣旨を汲んだものになっていません。そして、より重要な問題は、後2者を作成した主体がその利用方法についてあまり自覚的でないことです。一連の「議論について」では、その点について

日本語の習得と習得支援について丁寧に議論する② ─ シャドーイングのキモは疑似的な当事者経験

 「丁寧に議論する①」で、「学生たちは言語知識を身につけているが運用能力に結びついていない」ということについて、丁寧に議論しました。そして、最後の部分でシャドーイングの有効性を指摘しました。今回は、シャドーイングの有効性について議論します。   1.演劇的指導となぞり語り  言語教育ではしばしば演劇的手法の有効性がしばしば論じられます。セリフをしっかり「身につけて」実際に演じるという方法は有効でしょうし、実際に体を動かして演じなくても台本のセリフをその人物になりきって「演じ

日本語の習得と習得支援について丁寧に議論する① ─ 「学生たちは語彙や文型・文法事項を知っているが、話せない/使えない!」、「既習の言語知識が運用能力に結びついていない!」

 日本語の先生から、(a)「学生たちは語彙や文型・文法事項を知っているが、話せない/使えない!」、(b​)「既習の言語知識が運用能力に結びついていない!」、という課題の指摘をよく聞きます。この指摘は、概略はその通りだと思いますが、十分に丁寧な指摘ではないと思います。詳しく検討してみたいと思います。 □ 問題の所在 1.「学生たちは語彙や文型・文法事項を知っている」「既習の言語知識」 ─ 明示的知識の問題  ここに言う「語彙や文型・文法事項」というのは、客体的な言語事項のこと

Conform to the norm、つまり、「規範(正しく適切とされていること)に準じる」に注目するばかりでよいか

以下、Twitterの他の人へのレスの足し算です。  昨日の大会での議論でもそうだったけど、そもそも、言語の理解ってなんだ? 産出(運用?)ってなんだ?などを考えてほしい。また、昨日の習熟の議論は、conform to the norm、つまり、「規範(正しく適切とされていること)に準じる」という観点ばかりで論じられている。お笑い芸人は日本語熟達者!?  「まずはconform to the normが必要!」と言う人がいる。昨日も柔道の型などの話が出ていた。日本語教育に

日本語教育研究者と日本語教育の実践 ─ 研究で培われた「鋭敏な目」から洞察を

 この数日でTwitterで上のようなテーマとなる発信をしましたので、まとめます。 *便宜のために番号を付けました。ぜひ、おもしろいと思ったの、レスください。 1. 日本語教育に関心を寄せる研究も「研究」なのだから、研究者が「研究」として、「役に立つ」とか「役に立たない」とかは考える必要はなく、自立的・自律的にやればいい!? それだと、日本語教育が研究者の「ダシにされる」ような! そして、そんな傾向は以前から感じている。 2. 一方で、それまで長く日本語教育に従事していた

日本語習熟論学会に参加して

facebookに3つ記事を書いたので、シェアします。 Ⅰ. 言語習熟論学会(2021年にできた新しい学会)の第1回年次大会に参加中。午前中のシンポジウム「習熟論の必要性・可能性」が終わりました。全体の感想などは「省略」して、聞きながら考えたこと。 「日本語教育に従事して知識・技能と思考力・判断力・表現力等について考えること ─ 日本語教育と国語教育における日本語の習熟を考えるために」(以下のメモのタイトルです。) 1.仮の用語の定義 (1) 言語知識・言語技能を包括

強い興味・関心主導の日本語習得

 この記事はごく簡潔に書きます。 1.表現活動の日本語教育と強い興味・関心主導の日本語習得  先に書いた表現活動の日本語教育における日本語習得の仕方(記事:日本語を「教える」ことの70-8-%は…)は、いわば「整えた形で教育を企画して実践する」というパラダイムでの日本語習得の仕方となります。それとは、大きく異なって、強い興味・関心主導の日本語習得とそれを促進する日本語教育というのも「ITが進んだ現在」では実行可能です。  その方法は、その名の通り、日本関係のいろいろな事象(ア

日本語を「教える」ことの70−80%は話題という「桶」に言葉遣いという「水」を溜めること

 今はほとんど見られなくなりましたが、夏の打ち水というのをご存じでしょうか。下の写真のように、夏の昼間の暑さをやわらげるために日が陰ってから家の前の道に水をまくことです。で、日本語の習得をこの打ち水に譬えたいと思います。 1.表現活動の日本語教育あるいは自己表現の日本語教育  文型・文法を中心として適宜に語彙も加えながら教えていくというやり方ではなかなか日本語が上達していかないというのは、日本語の先生の多くが共有している認識だと思います。筆者は、そうした方法の代替案として表

みんな、ThresholdやWaystageを知らないor忘れている — そして、みんな話題についての言語技量も知らないor忘れている

 CEFRを旗印とする?現在のCouncil of Europeによる外国語教育改革の運動は、1970年代から始まっています。当初はユニット・クレジットシステムの開発がめざされました。その際に、ガイドラインとなったのが、vanEk and AlexanderのThreshold levelとWaystageです。そして、Threshold levelとWaystageは、2020年のCEFR Companion volumeでも、ちゃんと!?言及されています。  そして、この

Can-doが忘れていること

 プログラム評価の世界では、ゴールに至るためのロジックモデルを作ることが大切だと言われています。  カリキュラム開発においては、「まずゴールを設定して、そのゴールから逆に戻っていく形で一歩ずつサブゴールを明らかにして、そういう作業をした上で、スタートからゴールに至る経路を設定するのがよい」としばしば言われます。これを、カリキュラム開発におけるロジックモデルと言う場合もあります。  「在野」の?日本語教育では、ロジックモデルの以前にゴール orientationさえありませ