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○日本語教育・日本語教育学評論

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日本語教育と日本語教育学などで折々に感じたことを発信しています。
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#日本語教師

日本語教育の参照枠の下で行動中心のアプローチでやっているとクラス授業はできない!?

 日本語教育の参照枠に基づく教育課程策定の議論では、たいてい、「一人ひとりの学習者によってニーズは異なる」だから「それに対応するためには一人ひとりの学習者のニーズを反映した(テーラーメイドの)教育課程を企画しなければならない」という議論の流れになってしまっている。  これって、(1)クラス授業否定であり、(2)「教育課程開始に先立ってニーズがわかる」主義だし、(3)「日本語学習者は実用的に必要な言語活動ができる日本語だけやればいい」主義、だよね。先の発信や、この3点、皆さん、

複言語・複文化主義をめぐる議論について

 複言語・複文化主義について、あちこちで議論されていますが、CEFR(2001)やCEFR(2020)でちゃんと定義されていますね。何だか、そこから先は、Japanese-contextで、それをどう解釈しどう生かすか(生かす部分と生かさない/生かせない部分があると思う)の議論をするのが「筋」だと思う。 CEFR(2001)から A further characteristic of plurilingual and pluricultural competence is

ぼくは、日本語教育学のフィールドワーカー!? ─ 現場、フィールドの現実の「たいへんさ」を忘れている日本語教育の専門家

 うまくまとまった話にはならないかもしれませんが、こんなテーマで書いてみたいと思います。 1.フィールドワーク  フィールドワークというのは、皆さんご存知かと思いますが、文化人類学や社会学などで行われる研究方法の一つです。文化人類学に引きつけて言うと、生活や文化が脈々と営まれている場所(site)に行って、そこで暮らしつつ、関心の人々の暮らし、生業(なりわい)、風習、祭事、言語活動などを観察・記録して、かれらの生き様やそのシステム、またそこに通底しているかれらのロジックや目

2023年度日本語教育秋季大会後の徒然

 大会後の徒然を書いてみたいと思います。 1.外国人技能実習制度に求められる日本語教育 ─ 誰のため? 何のため?  栗又由利子さん、藤波大吾さん、助川泰彦さんの報告があった。助川さんのは、少し例外的で、日本への送り出しが多いインドネシア、スラウェシ島のマナドという町と茨城県大洗市の話。  栗又さんと藤波さんの発表の日本語教育的な重要結論。 (1) 仕事の上での日本語は間に合っている。というか、「仕事」上は、挨拶をした後は、もう話すことはなく、黙って作業している。*仕事の指

NEJを採用することは新たな教育実践をスタートさせることである!

 日本語学校の主任や大学の日本語コースのコーディネータの最も重要な仕事は、教育企画をどうするかを検討し決定することです。教育企画はコースの目的や目標や取り扱う内容を「指定」するもので、学生たちが何をし何を達成しなければならないか、授業担当の教師が学生たちを支援して何を達成させなければならないかを要求します。つまり、教育企画は、コースで勉強する学生たち、コースで学生たちの日本語上達を支援する教師を決定的に縛るものです。コース全体としても、各課や各ユニットでも。そんな教育企画の仕

日本語教育の内容と方法の論じ方について③ ─ 「わたしたちの実践」の創造に向けて

 日本語教育のために、なぜ教師向けの企画・計画書が重要なのでしょうか。なぜ習得と習得支援の考え方も加えなければならないのでしょうか。このセクションではそのようなテーマをめぐって論じます。 1.Scarcella and Oxford(1992)の言語促進活動仮説 1-1 第二言語の習得をめぐる3つの仮説  第二言語の習得に関しては、以下の3つの仮説が提出されています。筆者流の言葉遣いでごく大雑把に説明します。  そして、第二言語習得研究では、それぞれの仮説を支持する証拠が

日本語教育の内容と方法の論じ方について② ─ 学習段階の解釈について

 「論じ方について①」で、第二言語の習得と習得支援についての考え方を企画・計画書に含めるべきとの議論をしました。また、さらりと日本語力ということも言いました。  日本語技量(Japanese language capacity)、あるいはシンプルに日本語力というのは、どのような知識や技能などがその基盤にあるにせよ、たどたどしく話す状況や語の形式や文の整序性などに問題がある状況や相手の言うことがわからないで何度も聞き返す状況なども含めて、日本語で言語活動に従事する総体としての能

日本語教育の内容と方法の論じ方について① ─ 誰に向けて発信するのか

 言語教育を企画するにあたって参照される基礎資料として、CEFRや、JFスタンダードや日本語教育の参照枠などがあります。後2者はCEFRの焼き直しなのでCEFRを直截に読める人にはあまり価値はないと思います。また、後2者はCEFRの邦訳に基づいて作成されており、そもそもその邦訳での各レベルの訳が十分に原著の趣旨を汲んだものになっていません。そして、より重要な問題は、後2者を作成した主体がその利用方法についてあまり自覚的でないことです。一連の「議論について」では、その点について

日本語の習得と習得支援について丁寧に議論する② ─ シャドーイングのキモは疑似的な当事者経験

 「丁寧に議論する①」で、「学生たちは言語知識を身につけているが運用能力に結びついていない」ということについて、丁寧に議論しました。そして、最後の部分でシャドーイングの有効性を指摘しました。今回は、シャドーイングの有効性について議論します。   1.演劇的指導となぞり語り  言語教育ではしばしば演劇的手法の有効性がしばしば論じられます。セリフをしっかり「身につけて」実際に演じるという方法は有効でしょうし、実際に体を動かして演じなくても台本のセリフをその人物になりきって「演じ

日本語の習得と習得支援について丁寧に議論する① ─ 「学生たちは語彙や文型・文法事項を知っているが、話せない/使えない!」、「既習の言語知識が運用能力に結びついていない!」

 日本語の先生から、(a)「学生たちは語彙や文型・文法事項を知っているが、話せない/使えない!」、(b​)「既習の言語知識が運用能力に結びついていない!」、という課題の指摘をよく聞きます。この指摘は、概略はその通りだと思いますが、十分に丁寧な指摘ではないと思います。詳しく検討してみたいと思います。 □ 問題の所在 1.「学生たちは語彙や文型・文法事項を知っている」「既習の言語知識」 ─ 明示的知識の問題  ここに言う「語彙や文型・文法事項」というのは、客体的な言語事項のこと

みんな、ThresholdやWaystageを知らないor忘れている — そして、みんな話題についての言語技量も知らないor忘れている

 CEFRを旗印とする?現在のCouncil of Europeによる外国語教育改革の運動は、1970年代から始まっています。当初はユニット・クレジットシステムの開発がめざされました。その際に、ガイドラインとなったのが、vanEk and AlexanderのThreshold levelとWaystageです。そして、Threshold levelとWaystageは、2020年のCEFR Companion volumeでも、ちゃんと!?言及されています。  そして、この

Can-doが忘れていること

 プログラム評価の世界では、ゴールに至るためのロジックモデルを作ることが大切だと言われています。  カリキュラム開発においては、「まずゴールを設定して、そのゴールから逆に戻っていく形で一歩ずつサブゴールを明らかにして、そういう作業をした上で、スタートからゴールに至る経路を設定するのがよい」としばしば言われます。これを、カリキュラム開発におけるロジックモデルと言う場合もあります。  「在野」の?日本語教育では、ロジックモデルの以前にゴール orientationさえありませ

言語教育(日本語教育)を実践するときにまず認識しておくべきこと

 「まず認識しておくべきこと」の第2弾として、言語教育(日本語教育)を「実践するときに」まず認識しておくべきことについて、やはり箇条書きで、書いてみたいと思います。*第1弾は、https://note.com/koichinishi/n/nff666cfd8b87。 1.日本語の授業の風景  日本語の授業を見ることがあります。そこで広く見られる風景は、2つです。1つは、話すことを促された学習者が、伝えたいことを日本語にすることができないで苦労している姿です。そして、いま1つ

文化庁の日本語教育の参照枠と標準的なカリキュラム案を再考する② —「実際的な生活活動の領域」と「人とつながる活動の領域」という2領域を

サマリー Ⅰ.「生活」の中に「実際的な生活活動の領域」と「人とつながる活動の領域」という2領域を設定する。 Ⅱ.カリキュラムとしては「人とつながる活動」が基礎となり、それに徐々に「実際的な生活活動」を入れていく。  昨日の発信の続きです。今回は、昨日の提案を新たなカリキュラムの指針としてまとめると!という話です。 1.「実際的な生活活動の領域」と「人とつながる活動の領域」という2領域  従来のカリキュラム案では「生活のために必要な生活上の行為」のみが採り上げられています。