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【うちには魔女がいる】#12 パン好きの定義について


うちには魔女がいる。

魔女はハローキティとほぼ同い年。
7月生まれの蟹座。A型。右利き。猫派か犬派かでいったら、断然犬派。
私のお母さんの、5つ歳が離れた妹。

これは魔女がつくる、やさしい料理の備忘録である。


魔女はけっこうな頻度で「あんまりパンって好きじゃないんだよね」と主張するが、私としては半信半疑だ。
どちらかというと〝疑〟の方が強いので、比率としては3信7疑くらいかもしれない。そのくらい、魔女のこの言葉には信憑性がない。

いつもSNSでおいしいパンの情報を集めていて、新しくできたパン屋を見つけてはいそいそと出かけていくし。
ベーカリーショップ激戦区である西荻窪を訪れた際は、はしゃぎすぎて3人家族なのに食パンを6斤買い込んでいたし。
極めつけとして、魔女はかつて片道2時間かけて東京のパン教室までわざわざ通っていた時期があるのだ。

果たしてこれが、「あんまりパンって好きじゃないんだよね」と言い張る人間のすることだろうか。






魔女に「パンが食べたい」とおねだりすると、けっこうな確率でいやな顔をされる。勝率は6割くらい。
私の「食べたい食べたい!」攻撃にめっぽう弱い魔女相手にしては、かなりしょっぱい成績である。
まあ、彼女の気持ちもわかる。単純に、魔女のパンは気が遠くなるような手間と時間がかかるのだ。

魔女のつくるパンは、イーストではなく天然酵母を使用したものである。特に彼女が愛用しているのは『ホシノ天然酵母』と呼ばれるもの。
魔女のパンづくりは、まずこの酵母の粉末と30℃の水を混ぜ合わせることからはじまる。ぬるま湯で眠っている酵母を起こすのだ。
この第1工程で24時間、酵母を起こしてからさらにプラス24時間寝かせなくてはならないので、下準備の段階でゆうに2日は必要になる。
つくろうと思い立ってすぐにつくれる類の代物ではない。

しかも酵母は生き物なので、なんと生存期限というものが存在する。大体1ヶ月くらいらしい。
生鮮食品のように今日明日で消費しないといけないわけではないのだが、だからといってうっかり日常に忙殺されていると、せっかく時間をかけて起こした酵母を無惨にも殺してしまう。
ちなみに魔女はこの流れで何度も酵母を惨殺している酵母界のシリアルキラーなので、きっとあっちの界隈では写真つきで指名手配されているに違いない。


つくり方自体はイーストを使用するパンとそう変わらないが、とにかく天然酵母のパンは発酵時間が長い。30℃に室温を保った状態で6時間発酵、などはザラである。
日常生活においてこの温度をキープするのがまずそもそも非常に面倒で、こまめなチェックが欠かせない。1時間のうち、温度を測るために魔女は何度も何度もパンの様子を見に行く。
家の中で温度を一定に保つのが意外なほど難しいということを、魔女のパンづくりを手伝うようになってはじめて知った。
夏場は30℃ちょうどになる場所を探して家中を徘徊するし、冬場はこたつの中をどうにかこうにか30℃に調節して発酵を促す。天然酵母パンのミソはこの温度管理。ちょうどいい温度を保つために結局一日中振り回され、ずっと傍に張りついている必要がある。

一応発酵機なるものもあるにはあるが、魔女曰く「あんまりパンって好きじゃないんだよね」らしいので、いつパンづくりに飽きるか分かったものではないために買うのは躊躇してしまうようだ。
母の日にプレゼントしようかと思ったが、本当にいやそうな顔で断られた。理由を聞いたら「そんなの買ってもらっちゃったら、絶対にパンをつくらなきゃいけない理由ができていや」だそうだ。
うーん、さもありなん。




いざパンをつくり始めると、魔女は温度計を片手にうろうろと家の中を徘徊するのが常だ。
こっちじゃ寒すぎ、あっちは暑いとウンウン悩む魔女を見ると申し訳なさが募るものの、やはり定期的に魔女のパンが恋しくなる。私にできることと言えば、ささやかな助手として働くことと、できたパンをおいしくムシャムシャ食べることくらいなので、あとは彼女の気が乗るのを日々祈るばかりだ。

生地をこねて数時間発酵させると、大きなボウルいっぱいにパンの種がふくらむ。
もちろん焼きたてのパンを食べるのが一番だが、この発酵途中のパン種を眺めている時間も私はわりと好きだ。

むちむちとして、ふっくらまあるくて。しろくて見るからにやわらかそう。
パンになる前の生地はいやにあどけなくて、なんだかキュンとしてしまう。こういうのを庇護欲というのだろうか。まあ、数時間後にはおいしく食べてしまうのだけれど。

決まった分量にカットして、表面がなめらかになるように丸めて、さらに発酵させて。
やがてオーブンから香ばしい匂いが漂ってくると、その瞬間、どうしようもなく満たされた気分になる。

どれだけ仕事で悩んで、人間関係に辟易して、やるせない現実に打ちのめされた夜でも。
小麦粉の焼ける匂いをかいだその瞬間だけは、全てを忘れて幸福になれるのだ。

焼きたてのおいしいものは、人を無条件でしあわせにする。



長い時間とたくさんの工程を経て出来上がったパンは、ぽってりと丸々太っていて、やっぱりあどけなくてかわいらしい。ものすごく熱いのは分かっているのにどうしても我慢できなくて、あちあちと騒ぎながらパンを半分に割る。
魔女のパンはむっちりとした弾力があって、はむっと唇で挟むだけでも感触が楽しい。
ほのかな甘みと小麦粉の風味の奥の方、どこか酒粕を思わせる独特の味わいを遠くで感じられるのが趣深い。これが天然酵母ならではの旨味ならば、確かにあれだけ苦労したとしても、酵母を叩き起こす甲斐があるというものだ。

はふはふと出来立てのパンに齧りついている私に、魔女は満足そうに目を細めた。腹がくちくなった動物みたいな表情だ。
さっそく2個目のパンに手を伸ばしている私に対し、魔女は一口味見をして以降手を出そうとしない。なんの気なしに「食べないの?」と尋ねてみる。

「実は私、あんまりパンって好きじゃないからさ」

そうお決まりの台詞を言う魔女に、「“パンを食べさせるのが好き”っていうのも、一応パン好きの範疇には入るんじゃないかしら」と思いながらも、私はふうんと大人しく相槌を打って3個目のパンに手を伸ばしたのだった。

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