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【うちには魔女がいる】#13 お弁当サイズの小宇宙


うちには魔女がいる。

魔女はハローキティとほぼ同い年。
7月生まれの蟹座。A型。右利き。猫派か犬派かでいったら、断然犬派。
私のお母さんの、5つ歳が離れた妹。

これは魔女がつくる、やさしい料理の備忘録である。


ろくな就職活動もせずにボヤボヤしていたせいで大学4年の3月に入っても進路が決まらなかった私である。
いよいよニート生活の開始かと魔女が本気で怯えていた最中、なんと滑り込みの3月25日に内定が決まった。

以前面接までいって不合格になった地元の美術館で、たまたま運営側の事務に空きができたそうだ。
悪運が強いというかなんというか。
4月1日からの業務に間に合わせるために、魔女とふたりで慌てて服やら日用品やらを買いに行ったのも、いまとなってはいい思い出である。
ちなみに、私は昔から学校で同級生と話すよりも家で魔女とお茶をしている方がよほど楽しかったせいで、学生時代の出席日数は常にギリギリだった。就職の報告に行けば、会う先生会う先生に「おまえが!? 働く!? 週5フルタイムで!!?」と目を剥かれたのは余談だ。




こうして始まったのが、魔女にとっては久方ぶりの〝毎日のお弁当地獄〟だ。

自他ともに認める魔女の手料理大好きっ子の私だが、幼稚園以降は意図せず給食が出る学校に通っていたため、実は『毎日お弁当が必要』という生活スタイルになったのは社会人になってからのことである。
もちろん魔女の手料理大好きっ子なので、自分でつくるという選択肢はない。


ところで、ニート一歩手前で奇跡的に就職先が決まったというのに、社会人というレールにとうとう乗ってしまった当時の私は、憂鬱で、不安で、わかりやすくしょげかえっていた。
いまよりももっと未熟で青く尖っていた私は、『就職』という2文字に対してひどくナイーブになっていたのだ。
4月が近づくにつれ、水やりを忘れられた観葉植物の如く萎れていく私を見かねて奮起したのは、ここでもやはり魔女だった。
少しでも職場で楽しみが増えるようにとかわいくてお洒落で素敵なお弁当箱をせっせと集め、午後からもがんばれるように私の好物ばかりを詰め込んだ献立を日夜考え、下ごしらえに励んだ。

そして無情にも訪れてしまった、4月1日。
絞首台に立ったかのような絶望顔で玄関先に立ち竦む私に魔女が手渡したのは、私好みの和柄の風呂敷に包まれた、小ぶりなお弁当箱。
あんなに行きたくなかったのに、魔女のお弁当が待っていると思うだけで「とりあえず行くだけ行くか」と多少も前向きになれるのだから、つくづく魔女の料理は偉大である。

生まれてはじめて出勤した職場で、ガチガチに緊張しながら自己紹介をし、ガチガチのままどうにか午前中の業務を終え、同僚のお姉さまたちに囲まれてようやくランチにありついた、正午。
包みを解いて現れたのは、わざわざ魔女がネットで取り寄せた、美しい曲げわっぱのお弁当箱だ。なめらかで無駄のない曲線を描く木味の生きた器は、ただ在るだけで凛とした存在感を確立している。
突然の曲げわっぱの登場で「アラッ」「ええ~素敵ね~」とにわかに騒がしくなったオーディエンスに照れるような嬉しいようなで、無駄に恐縮しながら蓋を開いた。


なかには、弁当箱に負けず劣らず美しく、おいしそうで、そしてなによりふんだんに愛のこもった魔女の料理たちが、お行儀よく収まっていた。


魔女の手間と愛情がこれでもかと詰まった美しいお弁当にお姉さま方はそれはそれは大興奮で、入社1日目にして『新人のコイさん』から『お弁当がめちゃくちゃおいしそうなコイさん』に見事ジョブチェンジを果たした。

家に帰ってから、今日一日だけで浴びるほど言われたお弁当への賞賛の数々をよかれと思って伝えたのだが、どうやら魔女のなかでは『褒められた喜び』よりもむしろ『次回へのプレッシャー』に変換されてしまったらしい。
その日から毎日のように、ああでもないこうでもないとブツブツ呟きながら次の日のお弁当を考えている魔女の姿は、私がアラサーと呼ばれる年になったいまでも健在である。魔女は冗談半分で「お弁当ノイローゼ」と呼んでいるが、まあ、あながち間違いでもない。

ちなみに私は20代の間に3回転職を経験したが、どの会社でも『お弁当がめちゃくちゃおいしそうなコイさん』の称号を継承し続け、相も変わらず嬉しさよりも上がったハードルに慄いてしまう魔女は、ストイックにその腕を磨き続けている。
最初こそ「成人しているのにこんな豪勢なお弁当を家族につくってもらっているなんて……」と人並の羞恥心なども覚えていたような気もするが、いまとなっては「うちの魔女マジ最強」という気持ちしかない。
大して親しくもない同僚に「コイさんお弁当いつもおいしそう、お料理上手なんですね!」とキラキラした目で見つめられても「いや自分食う専なんで」と一切の迷いなく即座に打ち返せるようになってしまった。
時の流れはかくも恐ろしい。





今日も今日とて馬車馬のように働き、満身創痍で魔女のお弁当を開く。

赤と黄色と緑がバランスよく配置された、彩鮮やかなお弁当。フランス料理のような芸術的なそれとも、高級料亭の和食のようなそれとももちろん違うが、相変わらず魔女のお弁当は美しい。
彼女の料理は、過剰に華美なわけではないのに、どことなく上品で可憐だ。

近い将来、私は会社員ではなく個人事業主として在宅での仕事に切り替える予定だが、魔女のお弁当を食べられなくなることだけが唯一の心残りである。
魔女の料理は朝昼晩の日常飯から記念日のパーティーメニューまであまねく愛している私だが、そのなかでも『お弁当』はどこか特別なのだ。


両手に余るくらいのちいさな箱に、魔女の料理がぎっしりと詰められている、お弁当の概念そのものにロマンを感じる。
私のためにつくられた、私だけのちいさな宇宙。

家はひたすら安心できる〝巣〟であって、そこで食べるあたたかい食事は、いつだって私に安らぎと安定を与えてくれる。
だけど、巣の外で食べる魔女の料理の、その心強さたるや。

いろいろな種類のおかずが詰められているお弁当箱を前に少し悩んで、ぱっと見はなんの変哲もない、箸休めで入れられたであろうブロッコリーを口に放り込む。途端広がる、バターの香ばしい風味と、ほどよい塩味。
きっと魔女はなんの気なしに、見た目のバランスとか、少しスペースが空いてしまった埋め合わせだとか、そのくらいの気軽さでこのブロッコリーを押し込んだのだろう。

けれども私は、そんな添え物のブロッコリーひとつとっても、丁寧にバターで炒めて私好みの味つけがされていることに、途方もない魔女の愛を感じてしまうのだ。

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