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#59 「やさしい生活者」

今朝、全て分かってしまった気がする。いや、本当に。
そして希望に繋がる、現時点の答えに辿り着いた。

「みんながご飯をつくって、みんなで食べて。へたっぴなギターを弾きながら腹から歌えるスナックのような、自分と向き合ったり鑑賞に訪れる神社のような所があればいい」

バカみたいな答えに着地した。
でも、真面目にそう想った。

理由を聞いてほしい。
忙しい人はこれだけでもいいから
受け取っていてほしい。

※各エピソードに分けて、曖昧に伝えています。
受け取れる人が、ぼくにとって希望です。

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EP_1

正直、どこから話せばいいかは分からない。
ずっと考えてきたことだから、
超簡単に要約すれば、「貧困から抜け出したい」んだと思う。社会的な問題としても、ぼく個人としても。

日本にはかつて「貧困」はなくて「貧乏」はあった。

その違いは、似て非なるもの。
お金がなくても生きていられる状態が貧乏。
お金もなくて生きているのが難しい状態が貧困。

ぼくは子どもの頃、不思議だった。
お婆ちゃんたちは貧乏だったというのに
5人兄弟でどうやって両親は養ったのだろう、と。

答えは簡単。
じぶんたちで「つくる」をごく自然としていたからだ。

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EP_2

初めて「火垂るの墓」をみた。
淡々と厳しい状態が綴られている手紙を読んでいるような気分だった。
エンタメも救いもないが、実存はあった。

ぼくは、日本に「貧困」が輸入された瞬間を描いた映画だと思った。

裕福な家庭で育った二人の兄弟は、嫌味な叔母から離れて生活を始めて、どんどん苦しくなっていき、誰も助けてくれず、ふたりとも亡くなってしまう。

その瞬間、嫌でも親戚と生きていく道を選べばそうはならなかった。キツく当たっていた叔母もまたお国の為に働いていない自覚から二人を疎ましく感じていたのだろう。両親が貯金していた大金さえ戦中では価値がなく、野菜の育て方を知っていた人は生き延びた。

まさに現代社会じゃないか。

現代社会に深く根を張ってしまった「無自覚な貧困」に落胆をした。
資本主義は価値をお金と交換できる仕組みだけど、人から「つくる」を奪っていった。さらに奪っていくのは「自信」だ。

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EP_3

男がメイクや脱毛しても不思議じゃない時代になった。全く否定しないのだけど、問いたいのは、それは「主体的」か「扇動的」かどうか。それがすごく混じってて濁ってる。

本人がしたいならばすればいい。身体に絵を描く発想は、プリミティブな行為だ。男もメイクやスキンケアする人が増えることで、経済的な理由で消費者が倍になる。そう企業が動いているとすれば、嫌気が差す。

「主体」なのか「扇動」なのか混じってるものが多くて見分けが付きにくくなった。だからこそ、情報が入ってこない静かな時間が必要なんだ。

自分と触れ合う時間と空間は持っていたい。

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EP_4

世界が狭くなる病気がある。
銭湯で隣に座る人が他の常連客を嫌そうにしている姿をみると発症者だった。

所属する場所が生まれ、安心安全な環境として、そこに根を張っていくにつれて、外部との接点がこわくなる。それは築いた安全地帯が脅かされるかもしれないから。

何故そこが大切なのかの軸があればいつだって開け渡すくらいの軽さを生む。一度離れて、外部からの観察をして更に愛すことだってできる。

世界が狭くなる病気への処方箋は、認識の更新作業を怠らないこと。

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EP_5

天草の「本屋と活版印刷所の屋根裏」で展示を行った。
初めての場所は、基本的にオーナーさん達とその周囲の大切な人たちと出会えたらそれでいい。充分すぎる。なんだか天草は、空間の熱の上昇と刹那が繰り返されて、毎日が最終回のような感覚だった。

(全部書きたいのだけれど、トークイベントだけ記する。)

とてもいい会だった。
ぼく自身は人前で話すことが久し振りでグダグダしていたのだけど、来てくれた人が面白かった。

ミシマ社の本を中心に取り扱う本屋さんの店主さんが
「消費者と生産者を分けることに違和感を持っていて「生活者」になっていくことを望んでいて、、」と語ってくれて、

「生活者」とは、生産者と消費者のあいだと理解する。

今はお腹が減ったらば、その瞬間に小さな欲求をコンビニ等で満たすことができる。こちらで料理をつくる行為やその時間を、とても安価に買っている。

その行為が進むごとに選択肢の一つとしてではなく
料理がつくれない身体になっていき、消費者の出来上がり。

何かを生み出して誰かに喜んでもらうことで、自然と自信を得ていたのだ。できそうなことは小さくはじめよう。生活者であるために。



天草で素敵な服をつくっている女性が
「レジ袋もあったかいものと分けたりしていたのは、お店で働いていた人の優しさだったと思うんです」と語ってくれて、

生産者やお店から過度なやさしさを受け取っていたのだから消費者からもやさしさをもって、互いに「やさしい生活者」になろう、と。

トークイベントは、此処に着地をしました。

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EP_6

かつて、仕事でお世話になっていた方から相談を聞いてほしいと連絡を受けた。内容は差し控えるが、その方らしい論法が面白くて終始喜んでいた。

話の終わり際、ぼくは彼に質問をした。

ぼく「先日、あるバンドマンが展示に来てくれて教えてくれたんですが、コロナを経て、ライブがしにくくなったせいで、中途半端に音楽してた人がいなくなって、本気でやってる人だけになった、と。

その構造を三角形で捉えた時、トップ(本気のバンドマン)と中間層(中途半端なバンドマン)と最下層があったものがコロナをきっかけにトップだけになってしまって、これ、文化の終焉の兆しと云えませんか?」

彼「酷いように受け取るかもしれないけれど、
その文化圏で磨耗して消耗して終わるものはあっていいと思っているけど
ただ文化の壊れ方に違和感があって、人為的なものは嫌だと思う。」

その通りだと思った。
それは、嫌だ。

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EP_7

今朝、文化の終わりについて考えていた。
メルマガ「そこはかとなき文學」に掲載したゴッタンの話やアイヌ民族のトンコリと云う楽器も三味線も受け継いでいたものが徐々に薄れたか、急に生活様式が変化して、文化の三角形はなだらかな丘になった。若者はギターを手にした理由はメディアの力は大きいと思うが、広がりの根幹を支えた文化や精神が存在していたことを忘れていた。

現在の若者は、パソコンで曲をつくっている。
ボタンひとつで、ギターの音だって三味線の音だって出せる。

それを否定しないけれど、便利な方へ向かう度に身体から大切なものが引き剥がされて、品性や知性、質量を減らして、難解なものを拒絶していく未来は「美しさ」を零れ落とすばかりだ。

せめてギターが弾ければ、伝統楽器と地続きでいられる。もし新たな習俗が生まれたら、新たな楽器やリズムを生むかもしれない。

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end

「みんながご飯をつくって、みんなで食べて。へたっぴなギターを弾きながら腹から歌えるスナックのような、自分と向き合ったり鑑賞に訪れる神社のような所があればいい」

と云うのは、
やさしい生活者となって
そんな人たちが気楽に集える場所があって
どんな人たちの状態も許し合える空気があって
新たな人も許容しながら
新たな習俗を生む空間のこと。

それにモデルは要らない。
集う人たちが醸す雰囲気でつくる。

貧困を徐々に無くしていきたいし、自信を取り戻していきたい。そして、それらに共感するものたちが連帯して、全く異なった属性のものたちが共存できる共和国のような世界をつくっていきたい。sanakaはその一部を担うし、その他は信頼する人たちに託したい。

「やさしい生活者」になるために
ふつうにご飯をつくって、いっしょに食べて笑って、
ギターを弾いて歌って、服をつくって寝るだけです。

誰でもできる平和運動です。

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