故事に学ぶ日本学術会議問題
ご訪問ありがとうございます。
前回,日本学術会議の会員任命拒否について,法的側面からの雑感を述べさせていただきました。他方,適法不適法とは別に,当不当の問題は別にあり得るであろうことも指摘させていただいておりました。
今回は,この,当不当という問題について,少しだけ私見を示させていただきます。
このブログでは,はばかりながら,中国の古代政治家である公孫僑こと子産のお名前を借りております。詳細は,当ブログの「はじめに」に譲りますが,この子産には,今回の問題に少し類似した事例についての逸話が残されております。
すなわち,子産が鄭の執政であったころ,「郷校」と呼ばれていた教育機関で,政府批判の言論が盛り上がり,いつしか反体制派の拠点とみなされるほど不穏な動きがみられるようになったことがありました。
これを見た鄭の大夫の然明(鬷蔑)は,子産に対し,郷校を「取り壊した方が良いと思います。」と進言しました。
これに対して子産が答えたものとされるのが次の内容です。
何爲。夫人朝夕退而遊焉、以議執政之善否,其所善者、吾則行之,其所惡者、吾則改之,是吾師也,若之何毀之,我聞忠善以損怨、不聞作威以防怨,豈不遽止,然猶防川,大決所犯、傷人必多,吾不克救也。不如小決使道,不如吾聞而薬之也(『春秋左氏伝』)
どうしてそんなことができようか。人々は朝に夕に暇なときに来て,もって執政の良し悪しを議論している。私は,そこで善しとされることを行い,悪しとされることを改めている。私の師といってよいだろう。どうしてこれを取り壊してしまうことができようか。私は,ひたすらに善意をもってすれば怨みを減らすことができるとは聞くが,威を加えることをもって怨みを防ぐことができるとは聞かない。威を加えればすぐに議論はやむだろう。しかし,川を防ぐようなものだ。大きく決壊すれば,必ず多くのけが人が出る。私はこれを救うことができない。小さく決壊させて流れをつけてやるに越したことはない。郷校の議論を聞いて,これを薬として用いるに越したことはない。(※訳に誤りがあった場合は筆者の責任です。)
日本学術会議に属されているのはいずれも高名な先生方ですので,郷校に譬えられることに不快感を覚えられるかもしれません。その点はお詫びします。
また,政権の任命拒否の理由も詳らかではありませんので,政府批判が理由であったかどうかも定かではありません。
しかし,いずれにせよ,人々の批判的言論は弾圧するのではなく,むしろこれに耳を傾け,用いるべきは用いるのが最終的には政権の安定につながるという子産の言葉は今でも含蓄のあるものだと思います。