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中毒症と呼ばれた病

妊娠中毒症と呼ばれた背景

古来より、妊娠は女性の体にとって重大な変化の時期とされてきました。その中でも、特に注意を要する症状の一つが「妊娠中毒症」として知られてきた妊娠高血圧症候群です。日本においては、旧来から妊娠に対する「中毒」症状として考えられてきました。妊娠中毒症はさまざまな名で呼ばれ、多様なエピソードが伝わっています。例えば、平安時代の文献には、妊娠中の女性が特異な症状を示した際に、それを「身重の病」として記録しているものもあります。また、江戸時代には、妊娠に伴う体調不良を「つわり」として捉え、これが極度に悪化した状態を「妊娠中毒」と呼ぶこともありました。

江戸時代における妊娠中毒症に関する具体的な記録は、今日の医学的な概念とは異なり、多くが民間療法や当時の医学書に基づいたものです。江戸時代の医学は、中国の医学に大きく影響を受けていましたが、妊娠に関連する症状に対する理解は限定的でした。

例えば、『婦人良方』という江戸時代の医学書には、妊娠中の女性が経験するさまざまな症状についての記述があります。この中で、妊娠による吐き気(つわり)や浮腫など、現代の妊娠高血圧症候群の症状に類似した状態が記されていますが、これらは「妊娠中毒」という言葉で捉えられていたわけではありません。

また、民間療法の中には、妊娠中の不調を和らげるためのさまざまな薬草や食事療法が伝えられていました。たとえば、妊娠による浮腫みには、ある特定の草根を煎じたものを飲むと良いとされたり、特定の食材を避けるよう勧められることもありました。

しかし、これらの記録は現代の医学的観点から見ると、症状の緩和に焦点を当てたものであり、妊娠高血圧症候群のような複雑な病態を正確に理解し対処していたわけではありません。江戸時代の日本では、妊娠に関連する複数の症状が観察されていたものの、それらが一つの症候群として捉えられるには至っていなかったのです。

このように、時代を通じて妊娠中の女性の健康は重要視されてきましたが、それに対する医学的な理解は必ずしも進んでいたわけではありません。近代に入り、医学が発展するにつれて、妊娠中毒症が高血圧、蛋白尿、浮腫などを特徴とする妊娠高血圧症候群であることが明らかになりました。この症候群は、妊娠中の女性の健康を脅かす重大な状態であり、適切な管理と治療が必要です。

妊娠高血圧症候群の近代史

2000年の初頭まで、今日「妊娠高血圧症候群」と呼ばれている疾患は、「妊娠中毒症」として広く知られていました。この時点での診断基準と病気分類、そしてそれまでに試みられた治療法について探ることは、現代医学がどのように進展してきたかを理解する上で重要です。

<診断基準と病気分類>
当時の妊娠中毒症は、主に以下の症状に基づいて診断されていました。

1. 高血圧:妊娠20週以降に血圧が140/90 mmHg以上に上昇すること。
2. 蛋白尿:尿蛋白が陽性であること。
3. 浮腫:浮腫があること。

この病態は、現在は病型分類されますが、過去には軽症か重症かという視点で分類されていました。さらにいくつかの亜型が存在するされていました。

<治療法>
妊娠中毒症の治療は、症状の軽減と母体及び胎児の安全の確保に重点を置いていました。これらは今もあまり変わっていませんが、降圧薬は胎児への血流を低下させることもあり、現在よりは消極的でした。

1. 安静:症状が軽度の場合、安静にすることで血圧を管理しました。
2. 薬物療法:血圧を下げるための薬物が使用されました。また、痙攣の予防と治療のためにマグネシウム硫酸が使われることもありました。
3. 早期分娩:症状が重篤な場合、母体と胎児の安全を確保するために早期分娩が選択されることが

2000年初頭までの妊娠中毒症に対する理解と治療は、現代の妊娠高血圧症候群に関する知見に比べると限定的でした。しかし、この時代の医療の取り組みは、今日の医学が母体と胎児の健康を守るための基盤を築く上で不可欠な役割を果たしてきたことは間違いありません。現代医学の進展により、妊娠高血圧症候群はより詳細に理解され、より効果的な治療法が開発されていますが、過去の経験と知見は、今日の医療の基礎となっているのです。

妊娠高血圧症候群の名称変更とその背景

2004年以降、医学界における妊娠に関連する高血圧の症状は、「妊娠中毒症」という用語から「妊娠高血圧症候群」と呼ばれるようになりました。さらに、2018年には、英語での名称が「Pregnancy Induced Hypertension」(妊娠誘発性高血圧、直訳)から「Hypertensive Disorders of Pregnancy」(妊娠高血圧障害、直訳)へと変更されました。この用語の変更は、妊娠中の高血圧に対する理解の深化と、国際的な医学基準への適応を反映しています。

<用語変更の背景>
1. 医学的理解の進化:以前は妊娠が直接的な高血圧の原因と考えられていましたが、より詳細な研究により、妊娠中の高血圧は複雑なメカニズムを持つことが明らかになりました。このため、より包括的で正確な用語が必要とされました。

2. 症状の多様性の認識: 「妊娠高血圧症候群」は、軽度から重度の症状を含むさまざまな状態をカバーするための用語です。これには、軽度の妊娠高血圧から重篤な状態である子癇までが含まれます。

3. 国際的な調和:医学用語の標準化は、国際的な研究や治療ガイドラインの共有を容易にするために重要です。用語の統一は、異なる国々や文化間での情報交換を促進します。

<用語変更の影響>
この用語の変更は、妊娠中の女性の診断と治療において、より精確なアプローチを取るための基盤を築いています。妊娠中の高血圧は、母体と胎児の健康に重大なリスクをもたらす可能性があり、正確な用語は正確な診断と効果的な治療計画の策定に不可欠です。

用語の変更は、単なる言葉の問題ではなく、医学的理解と国際的な協力の進展を反映しています。妊娠高血圧症候群(Hypertensive Disorders of Pregnancy)という用語は、妊娠中の女性とその赤ちゃんの健康管理において、より効果的で包括的なアプローチを促進するための一歩となっています。

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