社会 【旧石器時代と縄文時代】

社会の歴史の話題です。


旧石器時代、打製石器

日本の旧石器時代は約50万年前から1万年前までの期間を指し、主に狩猟採集の生活を送っていました。
この時代には、打製石器が主な道具として使用されます。
縄文時代や弥生時代とは異なる特徴が見られます。
旧石器時代の初期にはアシュール文化クラクラ文化が栄え、後期には縄文時代へと移行していきました。
狩猟や食料採集が主な生活手段であり、火の利用や狩猟道具の進化などが進んでいました。
また、当時の人々は洞窟や岩屋を住居として利用していたと考えられています。

旧石器時代には対応する言葉として「新」石器時代が存在します。
新石器時代は紀元前10000年から紀元前3000年ごろまでの時期を指します。
旧石器時代との決定的な違いは農耕や畜産が盛んになり、定住生活が始まったことが挙げられます。
また、陶器や織物の技術が発展し、食料の貯蔵や加工が可能になりました。さらに、金属器具の使用が広まり、道具の効率性が向上しました。
「旧石器時代」と「新石器時代」という対比は、世界史的に用いられているものです。
日本では「新石器時代」は「弥生時代」に相当します。(縄文時代であるといしている記述も一部にみられます。)

相沢忠洋、旧石器時代、岩縮遺跡

過去には「旧石器時代」は日本にはないものと考えられていました。
これを発見したのは「相沢忠洋(あいざわただひろ)」さんです。

相沢忠洋さんは、1946年に岩宿(群馬県)の切り通し関東ローム層露頭断面から、細石器に酷似した石片を発見したが、旧石器と断定するまでには至りませんでした。
1949年(昭和24年)の夏、相沢は岩宿の関東ローム層中から明らかに人工品と認められる黒曜石でできた槍先形石器を発見した。
しかし、これを旧石器と認めてくれる学者がいませんでした。

同年初秋、この石器を相沢から見せられた当時明治大学の学生であった芹沢長介は、杉原荘介教授に連絡し、9月11日 - 13日、岩宿の現地で、杉原、芹沢、岡本勇、相沢ら6人で小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われ、杉原の手により、卵形の旧石器が発掘されました。
これは後に「刃部磨製石斧」と名付けられ、東京に帰った杉原はこの発掘の結果を主要新聞に発表しました。

日本は陸続きだったのか?ついでに野尻湖、根堅遺跡

旧石器時代は「氷河時代」とも呼ばれ、非常に気温が低く、日本の近海も凍っていたと考えられています。
このため、海面が現在より100mも低く、大陸と陸続きだったと考えられています。
北からはマンモス、南からはナウマンゾウやオオツノジカが日本列島にやってきました。
ナウマンゾウは長野県の野尻湖の湖底から臼歯が発見されたことにより、その存在が明らかとなりました。
発見者は旅館の主人である加藤松之助さんです。
1948年に発見され、はじめは「湯たんぽ」の形をした「なにか」という認識で、議論を重ねて結局発掘作業が始まったのは1960年代になってからでした。
ナウマンゾウは日本の氷河期の代表的なゾウの一種で、日本と中国の一部で発掘されますが、最も数が多いのが野尻湖です。

また、静岡県の根堅遺跡では浜北人と呼ばれる新人類の化石人骨が発見されています。
新人と呼ばれる縄文人、延いては現代人の祖先は旧石器時代に大陸から渡ってきたと考えられています。

ホモサピエンスは7~6万年前にアフリカ大陸から出ていっており、日本最古の石器は12万年前のものと推定されているため、旧人が使用していたものです。
日本列島に新人が現れたのは4~3.5万年前と考えられ、これらの新人は遺伝子解析による起源年代とほぼ一致するようです。

旧石器時代から縄文時代へ

旧石器時代から縄文時代を区別する決定的な理由は、狩猟だけでなく「採取」を行うようになったことが挙げられるようです。
キーワードは「より安全に」です。
狩猟の面では、弓矢が開発され、安全に素早い動物を狩ることができました。
また、骨角器で漁を行うようになり、魚を焼いて食べたことが推測できる証拠もあります。
また、植物を採取して食べるようになり、より安全に人類が生活できるように変化していきました。




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