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10年後の自分を想像してみる

20年、30年後のことを考えることがよくあります。
去年生まれた娘が大学を卒業し、独立するであろう頃。
あるいは、老後について。

子どもに迷惑かけへんくらいの貯金しとかななーとか、
夫と元気なジジババライフを送れるように鍛えとかないとなーとか、
夫とフランスで一ヶ月くらいエアビーして、ワイン飲みまくりたいとか。

でも、10年後のことって案外考える機会がすくない気がする。
それは、壮大な計画をするにはあまりにも近い将来だからかもしれないし、
かといって一年後よりは遠いからかもしれない。

10年後、自分はどこで何をしているんだろう。

10年後の自分を取り巻くもの

10年後。
娘が10歳になって、夫はエンジニアとして中堅になっているであろう頃。

夫は家族と一秒でも長く一緒にいたいらしいので、フルリモートフルフレックスの環境を勝ち得て、それも十分馴染んでいるであろう頃。

私たち夫婦の関係は、たぶん今とほとんど変わらず、
私が部屋でおならをぶっ放すと「可愛いね」って抱きしめられるのに、夫が部屋でおならを我慢しきれずにちょっと漏れ出てしまうと、私に怒られるという関係。

ほんの少しの違和感もなんでも共有して、伝え合う関係。
そこに、しっかり自我を持った娘が加わって、楽しい家族ができあがっているであろう図。

住むところはたぶん今と変わらない。
私は今の家が好きだ。

40歳を過ぎて、シワや贅肉が目立ちだして、昔の写真なんか見返したりして、ちゃんと歳を重ねたことに安心している。
大丈夫、時計は前に進んでいる。

私は相変わらず家族のために料理をするのが好きで、冬が嫌いで夏が大好きで、月に1回くらい夫とデートをするのだろう。

コロナはすっかり収まったけれど、コロナ税が導入されて久しい、ってことになっているかもしれない。
国の財源は相変わらず火の車だけれども、私たちはやはり政治に興味が持てないでいる、のだろう。

毎日同じようで、それでも毎日何か新しいことがあって、無事に生きていく。そんな41歳。

10年後なんて全然見えない

一方で、10年後なんて全然わからなくもある。

私は仕事をしているのだろうか?
ベーシックインカムはついに試験導入されるのだろうか?
働き方改革の進捗具合はどうなのだろうか。

どんな本を読み、どんな木曜日の過ごし方をしているのだろう。
家族以外の、誰が私の人生にいるのだろう。

環境問題が深刻になって、海外旅行に飛行機を使えなくなるかもしれない。

若い農家が開発した「チョコレート風味の野菜」が品薄かもしれない。

突然、不治の病を宣告されるかもしれない。

妊娠していることだってありえなくはない。

右肩の筋肉だけが異常に発達するかもしれない。

10年後は、ぜんぜん想像できない未来でもあるのだ。

10年後を想像できるほうがいいのか?

これは、想像できる内容にもよるし、人にもよるだろう。
誰といるか、どこに住んでいるか、どんな仕事をしているか。

ある程度予測できたほうが安心できる人もいるだろうし、
まったく、なにひとつ想像できないというほうがワクワクする人もいるだろう。

5年前の自分に同じ問いをしたら、後者を迷いなく選ぶはずだ。
私が市役所の仕事を辞めたのは、10年後、20年後、30年後の自分がいとも簡単に想像できてしまったから。
それが心底恐ろしかったし、退屈だったから。

だから、とてつもなく大きな不安を抱えてはいたけれど、やっぱり10年後は想像できないほうがよかった。
当時は「今」が苦しかったから、10年後はそうじゃなくなるかもしれないという可能性が私を生かした。
人生は可能性に満ちているはずなのだから。

そして今、やはり私は10年後を予想できないほうを好む。
ただ一点を除いて。

「夫が、手を伸ばせば届く距離にいる」

この事実は、決して変わってほしくない。今の想像通りであってほしい。

娘が10歳でスイスに留学しようとも、私は夫のいる場所にいたい。
たったこれだけの違いでしかないけれど、同じ「10年後は予測不可能」であっても、不安はまったくない。
楽しみだけがある。

あるとすれば、夫が健康を損なうことだけれど、これはもう、今できることをやっておくしかない。
家でご飯を作る、なるべく運動するように仕向ける、ストレスの少ない仕事環境をつくる。

今も楽しいし、明日も楽しいし、1年後も10年後も50年後も楽しい。
それは、将来が約束されている(見える)からではなく、未開の地を夫と手をつないで歩いていくからなのだ。

10年後、私はこのnoteの存在さえ忘れているのだろうけれども。

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