中原中也と音楽少年
黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。
地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆(きざし)のやうだった。
麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。
翔(と)びゆく雲の落とす影のやうに、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた……
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!
(中原中也「少年時」)
詩人の中原中也に興味を持つきっかけとなったこの詩は、高校の教科書に掲載されていたものです。
中也と私は同じ山口県山口市湯田温泉の生まれ。中也の生家(現在は中原中也記念館)の裏手にあるアパートが、当時の私の家でした。もっとも、私が生まれて半年後には父親がそこから車で15分くらいの場所に建売住宅を購入したので、湯田温泉で暮らした記憶はありません。
この詩に出会うまで中也の存在は、山口出身の有名人だよね、程度のものでした。だけど、高校生のときこの詩に出会ってからは、文庫本で中也のいろいろな詩を読み漁りました。
当時の私は歌を作っては、カセットテープに録音してためていっていたのですが、中原中也が今の時代の若者だったら、シンガーソングライターになっていたのではないかなと思っていました。
周りの同年代の子たちが若者らしく青春を謳歌しているのを横目に、中原中也にのめり込んで、誰かに聴かせる当てもない音楽をせっせと作りためる。ずいぶんめんどくさそうな、付き合いにくい奴だったと思います。
合コンとかにも、誘われたことがないです。
高校を卒業してからは、ライブ活動を始めたり、地元のCDショップに自分で作った音源を置いてもらったりなど、地元密着で音楽活動を行い、仲間も増えていきました。
音楽は上京してからもマイペースで続けています。東京の老舗ライブハウス「下北沢LOFT」では、2007年ごろからずっとお世話になっています。
10代から20代前半くらいの頃は、ぼんやりと音楽で飯が食えたらいいなと思っていましたが、だからといって積極的に自分をしかるべきところへ売り込んだり、チャンスの多そうな場所へ身を置いたりする勇気はありませんでした。「俺はまだ本気出してないだけ」などと言いますが、まさにそれ。今よりずっと世の中のことを知らず、受身な人間だったように思います。
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