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『居心地の1丁目1番地』ができた後・できる前の話【前置き】 振り返って最初に思ったのは、終わった実感がないということ。

ものを大勢の人とつくった時、何を感じるか。感じたことを、どう受け止めているだろうか、他者にどう受け止めてもらっているかを知ることは、どういうことなのか。結局のところ、じぶんは何をつくっていたのか。コミュニティ内で、初めて仕事ではない本づくりを終えて感じたのは、終わった実感がなかったこと。そして、できた本に対して、他人事のじぶんがいたことだ。

はじめに

コルクの佐渡島庸平氏が主催するオンラインコミュニティ「コルクラボ」で、コミュニティによる本づくりに初めて関わりました。以前仕事でも、本をつくったことがあるのですが、今回は仕事ではないので、お金をもらうことはなく、やりたいから関わるというスタンスでした。どういったつくり方、どういう本が出来上がるのかは、プロジェクトがスタートした時は、未知数でした。

このnoteでは、当時を振り返りながら、今現在感じていることや気づいたことなど、小出しに、少しずつですが、個人的に語っていくつもりです。「え、なんだそれ」って思われることも書かれることがあるかもしれませんが、一個人の見解として、ご容赦いただければ幸いです。

また、今現在抱えている自身の今回の本づくり及びできた本についてのモヤモヤ感を、紐解いていきたいと思います。紐解けないこともあるかもしれません(今まさに考えている最中なので)

なぜ紐解く必要があるのか、それは、仕事では感じることがなかった感情が、コミュニティによる本づくりの中で、色々生まれたからです。その生まれた感情と向き合うことで、じぶんを知りたいと思います。

その感情は、仕事の時には、無視・我慢していたもの、もしくは無視・我慢しがち、になっていたものだと思います。おそらく、当事者もしくは、それに近い経験をした人でないと、一見この感情は、分かりにくいところが、あるような気がします。僕個人の性質の部分もあるので、公私混同を前提ではありますが、紐解いていく過程を語っていきます。

振り返りにあたって、紐解く作業の最初の出発点になるのは、先ほど言ったモヤモヤ感です。このモヤモヤ感、日に日に僕の中で、少しずつ変化し続けています。

常に変化しているので、曖昧に不確かなものではあります。でも、モヤモヤの要因につながる具体的な体験としてあるのは、本ができて、最初に感じたことです。それは、本を完成させたという実感が、僕になかったことです。

『居心地の1丁目1番地』が完成して、1ヶ月以上経って、じぶんが語ること【前置き】

関わった本である、『居心地の1丁目1番地』の初版を発行して、早1ヶ月以上が経ちました。

時間が経って、少しずつですが、制作からの熱も落ち着いてきて、本の制作側の視点から読者の視点で、本を読めるようになってきました(たぶん)。制作当時の状況や経緯、本ができた後の、じぶんに起こっていた状態などを、振り返ってみると、いろんなモヤモヤした感情が僕の中で、ぐるぐる回っていました。

未だに、渦巻いているモヤモヤが、何なのか、じぶんの中で、分からない状態です。本を読み直してみたり、誰かの感想を聞いたりして、まさに考えている最中です。

このモヤモヤを、noteを通して、少しでも言語化できればと考えています。言語化して何か読む側にメリットがあるのかと言えば、正直ないかもしれません。

宣伝要素も入れようと思えば、入れられるんですが、このモヤモヤを抱えながら宣伝した場合、どっかで、読んでくれた方、手にとってもらった方、そして僕自身にも、誤解を与えてしまう可能性が高いです。分かってないことを、分かったふうに伝えてしまう恐れがあります。なので、なるべく率直に感じたこと、思ったこと、考えたことを書きます。

今回書くのは、制作した『居心地の1丁目 1番地』の振り返りnoteです。本ができた後とできる前について、制作側と読者の視点で書いてみます。前もって言っておくと、読者の視点で書くつもりと言ってますが、おそらく制作側、内輪のバイアスは入ってしまうと思います。できる限り、バイアスを取り除けるように工夫してみます。

先に申し送りしておくと、これから書いていく内容には、必ずしも全部がポジティブなものでは、ないかもしれません。言いにくいことも、多少入ってくるかと思います。なるべく、ポジティブな形で、伝えていくつもりです。

「実感がない」 振り返りをやった所感

初版を発行して3週間後、この本を一緒に作った中心の編集メンバーと、振り返りを行いました。その時、あるメンバーから、本完成後の今の所感を聞いたところ、「実感がない」というコメントが返ってきました。実は、僕も、その時同じことを感じていました。

本が完成したのに、終わった実感がない。素直に「終わったー」っていう解放感や喜びが、さほど強くはない。

制作が開始したのが2019年の6月の終わり。それから約4ヶ月、個人的には、じぶんの日々のけっこうな時間を本の制作にかなり割いていました。本の一部のページの編集、印刷会社やデザイナーとのやりとり、お金の管理など、多岐に渡って関わっていました。

嫌々やっていたわけではなく、チームの中で、この役割は、じぶんがやった方がいいかもというスタンスでやっていました。逆に、これはじぶんはやらない方がいいかもという役割は、他の編集メンバーにお願いしていました。ちょっとやってみたいってところは、自身の挑戦という形で、できる範囲で関わらせてもらいました(一部のページの編集のところは)

かなりの時間を割いて、本の制作に力を注いでいたのに、終わってみたら、できた本に対して、少し他人事なじぶんがいました。なぜか距離をとっていて、淡々としているのです。おそらく、じぶんが関わった時間がどれくらいとか、つくった本への想い入れや熱量とかは、あまり関係がないのかなと思います。理由は、別にあるのだと思います。

違和感がある チームでつくるってどういうことかを、あらためて考える。

じぶん以外の関わった制作メンバーや本の応援者が、本について盛り上げてくれたり、拡散してくれたり、喜んでくれたりすることは、うれしいと感じる一方、僕は、本について少し他人事です。他人ごとになる理由のヒントになりそうなのが、一緒に喜ぶだろうなって場面の時、じぶんの中で、違和感のようなものを抱えていることです。この違和感には、色々あります。

例えば、誰かに褒められて嬉しいと感じるけれど、内心は「うわー」って恥ずかしさみたいなものを感じたりします。この恥ずかしさは、大したことないじぶんに対して、変に過大評価されてしまっているところからくるのかもしれません。誤解がないように言っておくと、本人としては、プロジェクトに関して、役割を実行した自負はあるので、自己肯定感の低さからくる恥ずかしさではないと思っています。

じぶんだけで完成できたわけではないというのが、どっかにあるのだと思います。これが違和感となっていて、声高々にやりきったとも言えず、実感が生まれない理由の1つなのかもしれません。

仕事の時は逆でした。じぶんが担当した仕事が終わった時、上司や同僚に褒められた時は、うれしかったです。表面上は、「じぶんは大したことしてないですよ」って態度に対して、内心は「やりきった、やってやったぜ」みたいな感じで、心の中で舞い上がっていました。評価される、認められることが、何よりも仕事に取り組むことへの第一条件だったと思います(それを必ずしも悪いとは思いません)

今も評価されたい、認められたいという気持ちが、全くないかと言えば、嘘になりますが、過去仕事をしていた頃よりは、だいぶ落ち着いてきました。現在何よりも欲しいと感じるのは、つくった本に対しての第3者の感想やリアクションです。そして、じぶんという読者が、どう本を感じとっているかを知りたいです。このあたりの話は、また後で語ります。

話を戻します。チームでつくってる以上、1人の力で、できたわけではないのは事実です。『居心地の1丁目1番地』のクレジットを読んでいただくと分かりますが、最初6人でスタートしたプロジェクトが、本の完成間近では、100人以上のメンバーに関わってもらっていました。

制作過程の上で、「これやったことあるから、手伝えるかも」「これは、私がやった方が力になれる」など、各々が自分の出番だと思って、関わってくれたコミュニティ(コルクラボ)のメンバーがいました。もしかしたら、制作状況がカオスになる中で、少々雑な扱いを受けたり、居心地の悪さを感じた人も中にはいるかもしれないです。失敗をたくさんしました。それでも関わってくれたメンバー、応援してくれるメンバーは、挑戦できる場を、僕らに用意してくれました。詳しくは語りませんが、いろんな想いが渦巻く中で、なんとか本ができたことは、すごいことだと思います。関わってくれたメンバーに助けられました。

本のデザインで、9月から本格的に関わってくれた、前田デザイン室のみなさんには、プロジェクトを前に進めるための、大きな原動力になっていただきました。視えてなかったものを視える形にする力に、編集側としては、心強さを感じました。また、ものをつくる上で、プロジェクトとして、どういう環境や状態がいいのか、どうしたら皆が気持ちよく楽しい作業ができるのか、アイデアの膨らませ方など、デザイナーの方とやりとりをして、心理的安全性の観点で、考えさせられました。本づくりの在り方を、相対的に見ることができました。

最近、カバーをはずして、『居心地の1丁目1番地』を持ち歩いているのですが、途中パラパラめくって感じるのは、この本のサイズのおさまり感と手に馴染む感じ、ページに程よくおさめられたデザインが、心地いいです。強くなく、優しい。デザインをお願いしてよかったです。僕の中では、かなり本づくりの過程で、心境の変化が大きかったことを記憶しています。

また、本をつくるにあたって、支援してくれた610名のパトロンの方のおかげで、本の仕様に予算をかけさせていただき、贅沢な本づくりをさせてもらいました。どんな気持ちで、この本の支援をしてくれていたか、今後、感想もらえるとうれしいなぁと思っています。

また、クレジットには名前がありませんが、根気強く、こちらの要望に向き合ってくれた印刷会社シナノの担当の方、パトロンの方へ多くの配送をしてくれた倉庫会社TORICOの担当の方々、電子書籍制作やECサイト準備、経理など本つくりでフォローをしてくれているコルクのスタッフの方々。それ以外に、名前があがっていない方、見えないところで動いてくれていた方がいるんだろうなぁと思うと、キリがありません。制作のお尻のところは、時間が限られている中、踏ん張っていただきました。

今回感じている違和感は、もしかしたら、僕がこの本を通して、あらためて、考えていくことなのかなと、勝手に仮説を立てています。チームでつくるって、どういうことか、その中で、じぶんはどう向き合っていくのかを考えていきます。

リアクションがあると、うれしい。

違和感だけではありません。うれしいこともありました。まず、本が完成してよかったということ。次に、本ができたことにすごく喜ぶというよりは、できた本についての、第3者の感想やリアクションがもらえることの方が、うれしいです。

どういう風に受け取られているのか、どんな感想がもらえるのか、ポジティブな感想だけでなく、ちょっとしたネガティブな感想とかもくるんだろうなぁという変な期待もあったりします(ちょっとしたネガティブな感想については、僕の奥さんからもらえて、それはうれしかったし、なるほどなぁと思いました、これについては別の機会で紹介します)

本をつくって読んで、今後何を考えていくのか。

この時点で、初っ端から、テンションが低いと思われるようなnoteに思われるかもしれませんが、僕自身は、そんなにネガティブには受け取っていません。むしろ、じぶんはなんでこう思うんだろうということに興味が湧いています。

また、制作過程ではなく、できた本の内容について、制作側の立場ではなく、一読者として考えたことも書いていくつもりです。

本の中身に対して、違和感がないと言えば嘘になります。心のどこかでは、素直に受け取れないなぁ、よくわからないなぁというのは、少なからずあります。仕事だったら、つくったものに対して、じぶんから暴露したり、プロとして出した以上言わない方がいいということは、たくさんあります。ただ、読者として語る分では、ありかなと思っています。

『居心地の1丁目1番地』という本に対して、関わった1人として、制作者として、素人の一読者として、じぶんはどう向き合っていくか、これから考えていきたいと思います(四六時中考えたりはしません、間をおいたりして、ゆっくり考えていくんだろうなぁって感じです)

今後の連載構成ですが、マガジンタイトルにあるように、できる前とできた後とありますが、先にできた後の話をしていきたいと思います。できる前から時系列でやった方がいいのかなと最初は考えたのですが、できる前を先に語ると、変に思い出補正がプラスされてしまって、結果的にいい思い出話になってしまう可能性があるためです。

また、素人のじぶんと、制作側のじぶんとで、視点がいったりきたりするかもしれません。構成上は、分けて語った方がいいのかもしれませんが、このnoteは書籍ではないので、自由に書いていきたいと思います。


ここまで、お付き合いいただきありがとうございます。不定期連載になりますが、よろしくお願いします。

続く。

サポートありがとうございます。カフェでよくnote書くことが多いので、コーヒー代に使わせてもらいますね。