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友人からの一言でうれしかったこと。

こんにちは、上田です。

今回は、久しぶりに会ったカフェの友人について書いてみます。


今年から、じぶんで珈琲を淹れるようになって、しばらくご無沙汰だった友人が経営するカフェに、週単位で通うようになった。

久しぶりに来店して、友人に雑談した時に言われたことばが、妙にうれしかった。

「上田さんが、以前と比べて、たのしそうにしている顔を見れてよかったです」(たしか、そう言っていたはず、いや補正かかってるかも)


以前は、仕事場が近かったせいもあって、ほぼ毎日、珈琲を飲みに行っては、カフェの友人と雑談することが多かった(雑談と言っても、ほぼ、ぼくの愚痴が多かった)。

そういう付き合いを数年続けていくと、不思議とお客とお店の関係値ではなく、常連の枠を越えて、おともだちのような関係が生まれた(友人本人は、どう思っているかは、わからないけれど)。

ぼくと友人と話す会話は、豆や味についての珈琲知識や、カフェのメニューのアイデアとして、こんなんどうだろうみたいな話から、将来こうなりたい、最近体の調子がよくないとか、お互いプライベートの話になっていた。

友人以外にも、カフェに来店する他の常連のお客さんとも交流が増えた。常連の方との関係値は、おともだちというよりか、お知り合い、顔見知りぐらいの距離感だ。

でも、ただ「前お会いしましたね」ではなくて、「今日もお会いできましたね、いつも居ますね」みたいな親しみが、少なからず感じられた。

ベビーカーを押して来店する近所のお母さんとニコッとお互い「こんにちは」と挨拶したり、カフェでいつも寡黙に何かを作業している外国の方を見て「あ、今日もいる」ってぼくが思ったり、お決まりのマグカップに入った珈琲を写メっている人と軽く雑談したりと、いろんな常連の方が居た。

ほぼ毎日、ぼくも通ってるもんだから、彼らと顔を合わせる頻度が多かった。それもあってか、ある常連の方からは、「もうすぐ会社を辞めるんです」と伝えたら、後日、手ぬぐいと無地のハガキをプレゼントされたことがあった。

ぼくにとって、このカフェにくることは、毎日のたのしみであり、カフェの友人や常連の方と顔を合わせて、「どうも」と言える関係値が、当時仕事の合間に抜け出して訪れる空間として、居心地が良かった。

ぼくの中で、家族や会社とは違う、もう1つの小さいコミュニティが存在していたのだと、今あらためて思う。


ぼくが会社を辞めてから、別の会社に通うことになったので、毎日は、友人のカフェに通えなくなった。辞めてからは、週末の休日を使って、しばらく通っていたが、だんだん、月日が経つにつれて、通うことから遠のいた。

なぜなら、会社の近くにあって、仕事の合間に抜けて、気軽に寄れる場所だったことが、行く理由としては、今まで大きかったからだ。

友人に会いにいくのが目的だと、ちょっと、じぶんに無理をかけてしまうなぁというのもあったし、なんとなく「常連であるじぶん」にしがみつく(しがみつくというか、依存しているかな)のが、嫌だなぁというのがあった。

だんだん行かなくなって、半年1回ぐらいのペースになって、気づけば1年間、一度も行かなくなった。


ぼくが今年からまた、友人のカフェに行こうと思った動機は、じぶんで珈琲を淹れたいと思ったからだ(たまたま、別のコミュニティの友人から珈琲を淹れる道具を貸してもらったのが、きっかけだ)。

どこで豆を買おうかと思ったとき、友人が経営しているカフェで買いたいなぁとパッと思いついた。

以前通っていた時は、ぼくは豆を買ったことがなかった。そのおかげか、友人に会いにいく、珈琲をただ飲みに行くという以外の目的が、新たに生まれたことに、ぼくは、新鮮でワクワクした。


久しぶりに、友人のカフェを外から覗くと、いつもの友人がレジを打ってる姿が見えて、ぼくは安心した。さらに、笑顔で気立てのよさそうなアルバイトさんも居て、店内の雰囲気(人も内装も)は、以前と比べて変わっていた。より活気と明るさが感じられて、お店に固有の空気を強く感じた。

変化に対して、喜びに近いような感情が湧く一方、ぼくが知っていたカフェとは違っていて、少しさみしさを感じた。

変化に若干戸惑いを感じつつも、初来店のお客さんの気分で、お店の扉を開けた。ちょっと、ぼくは、ドキドキしていた。友人はどんな表情をするかな、なんて声をかけたらいいかなとか、ぼくは、色々考えていた。きっと、ぼくは、はにかんだ表情をしていたはずだ。


久しぶりに、友人と話してみると、少しつれない態度(友人がわざとやっているのは分かっている)で、いちお客として、最初接してくれた。妙に、このやりとりが、うれしかった。

うれしい理由は、お客と友人との間くらい(実際は、ほぼお客として)、接してくれたことだ。今のじぶんに対して接してくれるのが、うれしい。以前通っていた頃の、おともだちや常連との関係値とは、また違う距離感が感じられたのだ。

これが、「いやぁ、久しぶりですね、よく来てくれました」って言われたら、また違っていた。


席に座って、友人に挿れてもらった珈琲を飲んでいると、しばらくして、友人がぼくのところにやってきて、軽く雑談をした。

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「上田さんが、以前と比べて、たのしそうにしている顔を見れてよかったです」

友人から発したことばを聞いて、たぶん、ぼくは、また、はにかんでいたはずだ。一方で、ああ、ぼくは、いい方向に変わったんだろうなぁと、ぼく自身、言われて少し認識できた。

昔の仕事に不満をブウブウ漏らしていた、じぶんを知っている友人だけれど、そこから、今のじぶんを見てくれているのだなぁと知った時、なんとも言えない感情がじわじわ、込み上げてきた。そうか、ぼくは変わったんだと。


久しぶりに友人と接してみて思うのは、以前のおともだちのように、突っ込んだプライベートな話を、だらだら話すこともせず、適度に、ほっといてくれたり、お互いに気を使える距離感を取りながら、常連じゃない、たまにふらっと現れるお客という立場で、じぶんが居られることは、今までとまた少し違う新しい友人との関係値だった。

妙に、くすぐったいけれど、それが心地がよかった。なんとなく、じぶんのおともだちとしての大事にしたい距離感が感じることができた日だった。

こういう距離感のある関係値を、ぼくの中では、あらためて、おともだちと言っていいのではないかなと思った。

友人に薦めてもらったコロンビアの珈琲豆を買って、店を出てしばらくして、歩いている時のぼくの顔は、きっと緩んでいた。肩にかけたトートバッグの中からは、密封されているのにもかかわらず、袋から珈琲の匂いが、ほのかに感じられた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。ほぼ毎日1回、買った珈琲豆で、珈琲を淹れています。それが、1日のたのしみの1つになりつつあります。

ツイッターで、毎日淹れた珈琲のツイートをしていると、次珈琲豆を買いに行った時に、友人から直接淹れ方のダメ出しがもらえるのは、うれしいです。ちょっとずつですが、淹れ方ましになっている気がします。





サポートありがとうございます。カフェでよくnote書くことが多いので、コーヒー代に使わせてもらいますね。