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『演技と身体』Vol.31 自律神経の話②

自律神経の話②

前回に引き続いて自律神経の話をしたいと思う。
前回はポリヴェーガル理論を紹介し、自律神経のモードを〈交流モード〉〈闘争/逃走モード〉〈自閉モード〉の三つに分けた。
今回はそれらをいかにして使い分けることができるかを検討してみたい。

自律神経は不随意

まず言っておくと、自律神経は自律的に働くものなので筋肉のように直接的に操作することはできない。
そこで間接的な働きかけが必要になるのだが、いくつかアプローチの仕方が考えられる。

何に注目するか

自律神経は周囲の環境の安全性/危険性を非意識的なレベルで常にに評価している。安全であると判断すれば〈交流モード〉が優位に働き、危険を察知すれば〈闘争/逃走モード〉や〈自閉モード〉が優位に働く。
そしてその評価の仕方には個人差がある
通常、私たちが置かれている状況は自分にとって友好的なものとそうでないものが入り混じっている。緊張しやすい人はその中から、危険を示すサインに注目しやすく、打ち解けやすい人は逆に危険を示すサインには鈍感である。つまり同じ環境にいても、人によって注目するものが違うし、それに対する評価も異なる。
だから、〈交流モード〉に入るための方法の一つは、友好的なサインに注目してみることだ。具体的には、相手の声をよく聞くこと、相手の表情をよく見ることなどが挙げられる。自分の演技だけに注目していると、友好的なサインを見落とすことになる。だから相手の演技をよく見ることは、自分の体の状態にとっても重要なのだ。
また、つい敵意を感じてしまうものに対する評価を変えることも大切だ。周りの人や場所に緊張してしまう人は、それらに対して肩や骨盤が閉じてしまっていることが多い。まず相手に対して胸を開いてみて、安全だとわかれば身体は評価の仕方を変える。
これはカメラなどに対しても同じだ。女優の満島ひかりは、緊張した時には撮影部にお願いしてカメラに触らせてもらうのだそうだが、これは自律神経の面から見ても非常に理にかなっている。
無意識に怖いと感じてしまっているものに敢えて近づいていって、それが安全であることを身体レベルで確かめるのは、評価を変える一つの方法だろう。

内観する

より身体的なアプローチの仕方もある。
各自律神経のモードを司る神経は作用する身体部位にも違いがある。そこで、その部位を内観することによってそのモードが働きやすくなるということが考えられる。(内観については第5回を参照)
〈交流モード〉を司る腹側迷走神経複合体は、主に横隔膜よりも上の臓器、呼吸器系、顔面神経、中耳の筋肉などに作用する。
〈闘争/闘争モード〉を司る交感神経は、背中の中央部のあたりから出力が行われ、血管系に作用する。
〈自閉モード〉を司る背側迷走神経複合体は、横隔膜より下を含む臓器全般に作用する。
これはいわゆる丹田の位置に対応させると意識がしやすくなる。
一般的には三丹田と言えば眉間(上丹田)、胸部(中丹田)、へそ下(下丹田)だが、ここでは安田登『能に学ぶ身体技法』に倣って鎖骨同士の間あたりを[天の丹田]、背骨が肋骨に差し掛かる辺りを[人の丹田]、へそ下の辺りを[地の丹田]とする。
そう考えると、[天の丹田]がちょうど〈交流モード〉を司る腹側迷走神経と対応し、[人の丹田]が〈闘争/闘争モード〉を司る交感神経の出所と一致する。そして、[地の丹田]が〈自閉モード〉を司る背側迷走神経と対応関係にあると考えることができる。

〈自閉モード〉についての補足

〈自閉モード〉については少し補足してく必要があるだろう。
というのも、へそ下の丹田は丹田の中でも最も重要であると言われることが多く、そのへそ下の丹田が〈自閉モード〉と対応するというのは違和感がある。
その指摘は正しい。というのも、この記事の中では説明を簡単にするために言葉を混同させて使っているため、正確でないところがあるからだ。
(ここの説明は厳密さを担保するためのものである。少しややこしいので読み飛ばしても構わないと思う。)
〈自閉モード〉を司っているのは背側迷走神経複合体であるが、これは“〈自閉モード〉=背側迷走神経複合体”ということを意味するわけではない。
〈自閉モード〉とは、その他の自律神経が機能しなくなり、背側迷走神経複合体だけがかろうじて働いているような状態である。
背側迷走神経は前回説明したように、進化の中で最も早くに発達した神経であり、生命の最も基礎的な部分なのである。そして、主に身体の内部の状態をモニタリングしているのだ。この背側迷走神経は自己意識とも深い関係があり、つまり「私が私である」という感覚を支えてもいる個体として一番重大な神経なのだ。
だから、他の自律神経が優位に働いている時でも背側迷走神経自体は常に働いているのである。
そして、その他の神経が機能しなくなり、背側迷走神経の働きだけが剥き出しになった状態が〈自閉モード〉なのだ。この状態はつまり「私が私である」ための最後の防衛ラインまで攻め込まれてしまった状態になり、体の外の安全/危険を評価するセンサーである〈交流モード〉と〈闘争/逃走モード〉の神経をシャットダウンして、体の内側への感覚だけが残った状態なのだ。
だから、〈自閉モード〉を司る背側迷走神経複合体に対応するのがへそ下の丹田であるという説明と、へそ下の丹田が最も重要であるという説明は整合的なのである。

〈遊びモード〉〈愛着モード〉

ポリヴェーガル理論では〈交流モード〉〈闘争/逃走モード〉〈自閉モード〉の三つを組み合わせることで応用的な自律神経モードが起動することもあると言われる。
前回も説明した通り、〈交流モード〉は他の二つのモードよりも上位に位置しており、ヴェーガルブレーキという心拍数を調整する機能によって、他の神経の活性度を調整することができる。
そこで〈交流モード〉で安全が確保された状態のまま〈闘争/逃走モード〉や〈自閉モード〉を活性化させることで、中間的なモードが発生することになる。
〈交流モード〉×〈闘争/逃走モード〉の組み合わせは〈遊びモード〉と呼ばれる「安全な可動化状態」である。安全を感じたまま体を可動化状態に持っていくことで人は好奇心を満たし、スポーツやアウトドアに興じることができる。ドーパミンが分泌され、闘争にも逃走にもならずに遊戯的な対立関係を楽しむことができる。
〈交流モード〉×〈自閉モード〉の組み合わせは〈愛着モード〉と呼ばれる「安全な不動化状態」だ。安全を感じたまま身体内部の感覚を研ぎ澄まし、愛着や幸福を味わう。人と人とが親密さを確かめる時、ヨガや瞑想を通じてリラックスする時、このモードが働いていることになる。オキシトシンやセロトニンによってゆったりと落ち着いた気分を味わうことができる。

日頃の自分の状態を知る

〈交流モード〉〈闘争/逃走モード〉〈自閉モード〉〈遊びモード〉〈愛着モード〉を使い分けることによって、演技は自分の全存在を動員した表現へと変わっていく。なぜなら自律神経には無意識が含まれているからだ。
これらの使い分けができるようになるためには、まず日頃から自分の自律神経モードをよく観察しておくことだ。自分が日頃どのようなものに反応しているのかイメージして書き出してみるのも良い。自分を〈交流モード〉に引き上げてくれるもの、〈闘争/逃走モード〉に引きずり落とすものが何なのか知っておくことだ。すると次第に自分の状態を感知できるようになってくる。それが具体的な身体感覚にまで鮮明化してきたら、演技でも自在に使うことができるようになるはずだ。
そこまでできなくとも、瞑想や呼吸法、体の力の抜き方を学ぶことで、徒らに〈闘争/逃走モード〉が起動してしまうことを防ぐことはできる。カメラを触ること、相手に身体を開くことで〈交流モード〉に方向づけすることはできる。

メンタルヘルスのために

演技の技術としての側面を主に説明をしてきたが、ポリヴェーガル理論はそもそもトラウマ治療などの臨床の現場において用いられているものである。
役者のメンタルヘルスについてはこの連載でも度々言及してきているが、ポリヴェーガル理論を理解しておくことはメンタルヘルスにおいても役に立つ
役者にも様々なタイプがいるので、演技の中でうまく自分をコントロールできない人や、敢えてそうしない人もいるだろう。しかし、演技の中で意図せずして〈闘争/逃走モード〉や〈自閉モード〉が発動してしまった場合、演技として成功したとしても役者の中に傷が残ることもあるだろう。
演技とはまず自身の幸福のためにやるものだということは以前にも述べたが、そのためには演技を終えるごとに役から抜け出て自分に戻ってくる必要がある。そして、それは自律神経的に言えば〈交流モード〉の中に戻ってくるということになる。その役として受けた傷が役者自身にとっての傷とならないようにしなければならない。
神経エクササイズというのがある。最もわかりやすいのが「いない いない ばあ」だ。幼児にとって「いない いない」の時間は束の間ながら神経的に不安を覚えるが、そのすぐ後に「ばあ」で安心を得ることができる。
不安→安心という修復の過程を経験することによって、レジリエンス(回復力)を高めるエクササイズというわけだ。レジリエンスは、人生で嫌なことがあってもそれに押しつぶされてしまうことがなく、前向きで楽しく生きられるようにするために大切な力である。
役者という仕事は、普通の人が経験するよりも遥かに大きな感情を経験する職業である。それゆえ精神的に負荷を強いられることもある。しかし、その度に〈交流モード〉に戻る方法を知っていれば、この上ない神経エクササイズとすることができる。そしてその時、役者という仕事は成功するとしないとにかかわらず、人生を幸福に生きるための方便になるのだ。

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