カレーを作るということについて

カレーを作るということは、それ自体カレーに対する挑戦である。

カレーの包摂する範囲というのがあまりに広くて、とにかく色々なものを入れてカレーから逸脱してやろうという試みるのだが、その挑戦はいつも敗北することになる。

今日も、家にあるありとあらゆる調味料や材料をぶち込んで見たのだが、色々なものを入れれば入れるほどますますカレーっぽくなってゆく。

絵の具の色を全て混ぜればそこに混沌が現れるように、カレーの材料も色々入れれば入れるほど混沌としてゆくはずなのに、どういうわけかカレーという一つのまとまりを獲得するに至るのである。

少し前、本格的なカレー作りを趣味とする人と話す機会があった。その人の作る料理やその人の話を聞いていて、僕は「カレーとはそこにある実体を指すのではなく、そこから立ち昇る現象である」と思い至った。その人も同意してくれて、「カレーってチャクラだよね」という話になった。僕は正直チャクラについてはよくわからなかったけど、激しく同意した。チャクラについてよくわからなくても、相手の言いたいことはよくわかったからだ。そして、よくわからないことについてさえ分かり合えるということ自体がすごくカレー的だなと思った。

そう、つまりカレーとは違いを超えていく一つの思念なのだ。物と物の差異を作り出すのは、その輪郭だ。人参とじゃがいもが別々の野菜なのは、人参は人参の皮によって、じゃがいもはじゃがいもの皮によって輪郭づけられているからである。もし、この二つが輪郭を失って、くっついてしまったら、人参とじゃがいもの間の差異は解消されてしまう。そして、カレーは実際そのように機能するのだ。もちろん人参もじゃがいもも具材としてその形を残してはいるが、形としても成分としても半ばカレーに溶けており、カレーに接続しているという言い方ができる。カレーは粘度を持ちうるが、そのことによってカレーは個体と液体の中間を行き来し、個体と液体の境界を曖昧にしてしまうのだ。

かくして入れられた材料同士のあらゆる差異はカレーに媒介されてなくなってゆくことになるのだ。

逆に言えば、入れられた材料同士に差異が内在していればしているほど、カレーはその機能を発揮するということが言えるではないだろうか。
であれば、カレーを逸脱しようと色々な具材をバカスカといれまくっていた行為は最終的にその具材同士の差異が解消されるに至った時、この上なくカレー的なものに昇華されることになるということだ。

あらゆるものの差異が消失した世界というのは混沌であるに違いない。その意味でカレーというのはやはり混沌なのだ。しかし、普通混沌に陥ればあらゆる認識や知覚は不可能になるはずである。それなのにカレーがカレーでいられるのはなぜなのだろうか。

それは、先にも述べたようにカレーが実体ではなく現象だからなのではないだろうか。カレーがカレーであることはどう規定されているのだろうか。どこまでがカレーでどこからがカレーではないのか。それは実体的な規定ではなく、機能的な規定によるのではないだろうか。色々な物が溶け合うその現象をカレーと呼ぶならば、カレーは実質的に無限の広がりを獲得することになる。そして、無限と混沌は繋がっている。カレーとは無限と混沌を包み込むメタ概念なのだ。つまり、カレーとは宇宙なのだ。

カレーの話はここまでである。
しかし、果たしてカレーだけがカレーなのだろうかという疑問が残る。
例えば「物語」。これは言語に依存する分、カレーと比べるとその宇宙は小規模なものになるかもしれないが、それでも物語はどこまで行っても物語であり、あらゆる差異を受け入れる器を持っている。

僕は映画を作っていて、物語を作っている。そして、カレーと同様にどんなに物語から逸脱しようとしても人は物語の外へは抜け出せないことを知っている。しかし逆に言えば、物語から逸脱しようとする時、そこには新しい物語が生まれる可能性がある。

そんなことをうっすら考え始めたのが3年前で、その時に撮った『アイニ向カッテ』という映画が公開されることになった。

10/14~新宿K'sシネマにて。連日12:10~(14日のみ14:15~)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?