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『演技と身体』Vol.44 世阿弥『音曲声出口伝』を読み解く

世阿弥『音曲声出口伝』を読み解く

今回は世阿弥の中期の伝書『音曲声出口伝(おんぎょくこわだしくでん)』の要点を書こうと思う。書名からもわかる通り、主に発声や謡について書かれたものであるが、読んでみると非常に細かい点にまで言及されていてすごい。
「風姿花伝」と比べても細かな技術書という感じがする。能の発声は特殊すぎるようにも感じるがそれは表面的な部分に過ぎず、あくまで全身で発声すること、演技の面白さを引き出すための技術についての書だと思う。それらの技術について全て羅列することもできないので、要点をかいつまんで説明しようと思う。

一調二機三声

まず発声の基本について世阿弥は「一調二機三声」ということを言っている。観世寿夫は以下のように説明している。

「まず自分の中でこれから発する声の音高や音程、テンポといったものをからだで捉え、二番目に、からだの諸器官を準備し息を充分に引いて整え、声を出す間をつかんで、三番目にはじめて声を出す、ということです。」

観世寿夫著作集

これは「喉だけの発声にならないための技術で、腹式呼吸を正く使い、全身の共鳴を用いて発声するということに外ならない」とも言っている。
一般的には声を出すところが始点に思えるが、世阿弥の考えでは声を出すところが終点である。
これは感情的な面から見ても日本的な感性にはよくマッチするのではないだろうか。言いたいことを間髪入れずに主張する西洋とは違い、日本人は言葉や発するタイミングを慎重に選ぶ。だから声を発する「準備」をするというのは日本の表現でなければ成立しにくいかもしれないし、逆に言えば日本独自の表現にもなる。
上に引いた観世寿夫の解釈では二機の「機」の字を機会の機(チャンス)と捉えているようにも思える。これは能楽師としての実感から来ているものだろうから一つの真実なのだろうが、「気」の当て字であるという説が有力であるようだ。
「気」とは世阿弥の用語では「謡い出す前にその気構えで用意された息」である。
それに則って、「一調・二機・三声」を僕なりに言い換えると、「一肚・二息・三声」となる。まず内臓反応を感じ取り、そこで湧いた感情を呼吸に乗せ、声を出す。

息・声音・発音

さて、世阿弥は「一調二機三声」の項で「気」で調子を整え、整えた調子に声を乗せ、唇で発声を仕分けよと書いている。
これに則って、①「気」(息)、②声(声音)、③発声(発音)と観点を分けて考えてみよう。
「気」(息)については『音曲声出口伝』ではあまり詳しく書かれていないので、Vol.25「声の表情」Vol.32「間と呼吸」の回をご参照いただきたい。

声(声音)

これについても大方はVol.25「声の表情」で説明しているが、改めて「音曲声出口伝」を紐解いてみよう。
声の響きを「横(おう)の声」「豎(しゅ)の声」とに使い分けよという。「横の声」は明るく・強く・太く・外向的な声、「豎の声」は逆に静かで・暗く・細い・内向的な声である。観世寿夫はこれらをさらに具体的に、「横ノ声の方は、息全体を声にして口外に押し出すような気分で発声する、いわば安定した声」「豎ノ声は、息をあまり声にしないで無声音に少し近づけた繊細な声」であるとしている。また、「横の声」は胴体に響かせる声であるのに対し、「豎の声」は頭に響かせる声であるとも言っている。
特に重要だと思うのは、豎の声において「息をあまり声にしないで」の部分だ。繊細な表現をしようとする時、多くの役者はただ小さな声で喋るという表現に走ったり、あるいは舞台なんかでは繊細な表現をしたくても声を聞こえさせるためだけに張った大きな声になってしまったりする。
しかし、世阿弥に言わせれば前者の傾向は「弱き」演技となり、後者は「荒き」演技となるだろう。「弱さの表現」と「弱い表現」は全く別物だ。「弱い表現」というのは単に説得力のない自己完結な表現となり伝わっていかないのだ。
「息をあまり声にしないで」発声するとはどういうことか。
息を吐いて、そこに全く声を乗せなければ「ハ」の音になる。そこに声を乗せていくと段々「ア」の音に近づいていくる。この「ハ」から「ア」の音のグラデーションで声音というものを考えると「横の声」「豎の声」の区別はわかりやすいのではないだろうか。
つまり、「息をあまり声にしないで」というのは吐く息の力をあまり弱くし過ぎずにそこに乗せる声を調節することで、弱い表現に陥ることなく繊細さやか弱さを表現できる方便なのだと理解することができる。

発声(発音)

「発声」と「発音」はもちろん別物だが、「音曲声出口伝」では音の訛(なま)りについて面白い考察が展開されており、「発声」と訳されているが「発音」と解釈したほうが意味が取りやすいと思い、以下「発音」としていく。
世阿弥は発音について「節訛り」は構わないが、「文字訛り」はいけないと書いている。
「文字訛り」というのは名詞などの単語の訛りである。これがよくないというのは何となくわかる。では「節訛り」とはなんだろうか。
「節訛り」というのは、単語の活用語尾や助詞を訛ることであるらしい。単語の語幹さえ正しく発音されていれば、活用語尾や助詞は訛ってしまっても良いのだという。が、これは現代の演技では積極的な意味ではあまり使いどころがないかもしれない。
さらに面白いのが、曲舞(くせまい)の場合にはアクセントに対する考えが変わる点だ。曲舞とはまあ、舞踊りのことだと思えば良いのだが、曲舞の時は拍子(リズム)が中心となるので、少しくらい訛ってしまってもそれが逆に趣になることもあるというのだ。
やや拡大解釈にはなるが、現代の演技に置き換えると、セリフが主体なのか動きが主体なのかという区別で考えられないだろうか。
例えば会話が場面の中心に進行する時には、アクセントの正しさは外してはならないが、動きによって感情を表現しようという時にはアクセントを捨ててしまった方が表現に趣が出るかもしれない。

無文の文

最後に世阿弥は「声は無文なり」と述べている。無文であるというのは、アクセントそれ自体に彩りがあるわけではないということである。しかし、上手い人というのは、この無文の所から無色の彩りが自然と現れてくるのだという。
つまり、アクセントを変えて面白おかしくしてやろうというのは非常に表面的であり、良い役者というのは決まったアクセントの中でも自ずと彩りを生み出すものなのだ。これはあらゆる表現に言えるだろう。ただ奇抜なことをすれば良いのではなく、厳しい制約の中でも自分の表現をできなければいけないのだ。


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