『演技と身体』Vol.32 間と呼吸
間と呼吸
ま。
こうしてひらがなで書いたのを見つめているとすぐにゲシュタルト崩壊しそうだ。
間。
間はとにかく捉えどころがなく、よって正解もない。
正解がないのに、面白い間と退屈な間があるのは確かである。
それはその場その時によって適切な間が変化するからだろう。間には決まり切った正解がないが、その時々で適切な間がある。
呼吸。
書店に赴けば呼吸についての本が何冊も売られている。いろんな人がいろんな角度から呼吸に分け入り、それぞれが一冊の本になってしまうくらいの奥深さを持っている。逆に言えば、古来か多くの賢人たちが探究し続けてきたにもかかわらず未だその究極には辿り着けていないのが呼吸だ。
他方で、生きとし生けるものの全てが“息とし生けるもの”、つまり呼吸の実践者なのである。
このように間は捉えどころがなく、呼吸は底が知れない。だが、この二つには案外深い結びつきがあるのではないだろうか。そして、この二つを結びつけて考えてみることで、適切な間というものについて、何かしらヒントが得られるのではないだろうか。
脳の予測を裏切れ
面白いと思う間と退屈に思える間は人それぞれに異なるかも知れないが、ひとまず僕の主観的な判断を元に話を進めていこう。
以前、苦痛に思えるほど間の退屈な舞台を見たことがある。あまりにも単調なのだ。しかし、あまりにも単調で退屈な時間が長く続いたので、逆になぜこれほどまでに単調で退屈に感じるのか考察することができた。そして、気づいたことがある。
役者がセリフを言う前に必ず息を大きく吸い込み、それに伴って胸が大きく膨らむのだ。
人間の脳は意識するしないにかかわらず常に予測をしている。目の前の相手の動きや向かってくる車の動き、試合中のボールの動きに傾けたボトルからワインがどのように出てくるかなど。生活はこうした予測によって成り立っている。
観客として芝居を見ていて、役者が大きく息を吸い込んで胸が膨らませる動きを目にすると、次のセリフのタイミングを予測しやすくする。そして、その脳の予測に違わずセリフが出てきた時、退屈だと感じるのだ。
先ほど、普段の生活がいかに脳の予測に支えられているかを述べたが、日常目にする様々な動きが予測の範囲内に収まっているうちは、それらは無意識の中で処理され、意識に上ってくることはない。
だが、相手がいきなり襲いかかってきたり、車がいきなり横転したり、ボールが見たことのないスピードで迫ってきたり、ワインが勢いよく飛び出てテーブルクロスを汚した時、それらの動きは強く意識され、記憶されることになる。つまり、物事が意識に上り、記憶されるのは、脳の予測から外れたりその予測を超えた時なのである。
だから、セリフの出るタイミングが簡単に予測できる場合には、それが意識化されず、印象に残らないのである。また、以上のことからわかるのが、セリフのタイミングはある程度、呼吸のタイミングに依存するということである。芝居を見て間が単調に思えた原因の一つには呼吸が単調だったということも挙げられるだろう。
これらのことを踏まえると、適切な間とは、観客や演技の相手の予測を気持ちよく裏切るものであり、そしてそのためには呼吸を適切に制御できることが大切なのだと言える。
そこで具体的に必要になる技術とはどのようなものであろう。
一つは、呼吸の方法。もう一つには、呼吸の制御を通じて間をずらす技術だろう。
呼吸法について
一つずつ見ていこう。まず呼吸の方法である。よく知られているところでは、胸式呼吸と腹式呼吸がある。
胸式呼吸は胸郭(肋骨)を風船みたいに膨らませて肺に空気を入れる。外から見ると、息を吸うたびに胸が膨らむような格好になる。
腹式呼吸は、吸う時に腹を膨らませて横隔膜を下げることで肺に空気を入れる。呼吸に応じて腹が膨らんだりへっこんだりする。胸式呼吸よりも効率がよく、深い呼吸ができる。
この二つを比べると、胸式呼吸は胸が膨らむので、見ている側は呼吸のタイミングを予測しやすくなる。また、呼吸が浅くなりやすいので、腹式呼吸を基本とするべきだろう。
腹式呼吸の原理を使うと、丹田呼吸と呼ばれる方法も可能になる。
骨盤の底には骨盤底筋という筋肉群があり、これらを横隔膜と連動させることで、お腹を膨らませることなく、腹式呼吸ができるようになる。
この丹田呼吸が、外見上の膨らみが最も小さく、つまり見ていて呼吸のタイミングが予測しづらく、また最も深い呼吸方法でもある。(詳しい方法は書店や動画サイトに溢れているのでそちらを参照されたし。もしくはワークショップに参加してね。)
感情と呼吸
ただ、常に腹式呼吸・丹田呼吸が良いのかというと、そうとも言えないかも知れない。
人間は、感情が昂った時には胸式呼吸になりやすい。逆に言えば胸式呼吸の時には感情が昂りやすいのだ。したがって、強い感情を表現する演技の場面では腹式呼吸に加えて胸式呼吸を同時に行うことも有効かもしれない。
そのような場面では、観客も役者の身体に同調していくが、呼吸を通じた同調というのはとても効果が高いと思う。そして、呼吸に同調させるためには、呼吸が目に見える方が良いだろう。
だから、強い感情表現においては胸式呼吸が自然だと見るべきだろう。
吸いすぎてはいけない
いずれの呼吸法をとる場合でも注意しなくてはいけないのは、息を吸いすぎないことだ。
「呼吸」という字は「呼=吐く」が先で「吸=吸う」が後になっている。呼吸とは「吐く」意識が中心で、息を吸い過ぎてはいけない。息を吸いすぎると、セリフ前に余計な吐息が多くなったり、セリフの一音目が力の抜けた響きになりやすかったり、また交感神経が活発になりやすかったりと何かと弊害がある。『荘子』には「 三呼一吸法」というのがあり、吐く息三つに対して吸うのを一つにするというのもあるらしい。
呼吸の四要素
さて、ようやく間の話に入るかと思いきや、その前に呼吸の話をもう一息。
「呼吸」というと、「呼息(吐く)」と「吸息(吸う)」の二つで考えがちであるが、呼吸を実際に構成する要素として「 止息」と「保息」を数えておかなければならない。
意識としては、まず息を吐く(呼息)、そこで一度息を止める(止息)、それから息を吸う(吸息)、そこでまた息を止める(保息)、そしてまた息を吐く。という風に、吐くと吸うの間にそれぞれ一瞬でも息を止める時間を意識しておくのが良い。一つには呼吸をより深くするためであり、もう一つは演技において間を掴みやすくするためである。
それぞれの働きのイメージとしては、
吸息=集合・準備・貯蓄
保息=結合・化合・集中・統一
呼息=解放・行動・完成
止息=無
という感じだ。
落語の名人が話すのを聞いていると、面白いことを言う前にほんの一瞬息を止めているのがわかる。息を止めると、間をズラすことができるだけでなく、セリフの注目度を高めることもできるのだ(詳しくは第16回を参照)。
“込み”を使って間を掴む
能では、“込み”と呼ばれる技術を使って間合いを測る。具体的には、息を吸った後、その息を丹田のところに溜めておくようなイメージを持ち、すぐに吐いてしまわないようにする。その時、「ンッ」とか「ツッ」と言うような感じで丹田に力を込めるのだ。
先ほどの話で言えば「保息」の際に丹田に力を込めるのが“込み”であると言える。
“込み”が能で実際にどのように使われているかは、専門外でありまた非常に奥深い領域なので推し量ることができないが、この丹田に力を込めて息を溜めると言うイメージは利用できそうだ。
吸った息をすぐに吐いてしまうと呼吸は単調になり予測しやすいものになる。ところが、“込み”を入れると見る人の無意識の予測からほんの少しズレることになる。そして、“込み”の深さや長さを調整することで、そのズレを自在に調整することができるというわけだ。しかも、この時息を止めている状態なので、間が呼吸のリズムに依存するということもない。
“込み”の応用可能性
さらに、“込み”が「保息」を利用した技術なのだとすると、「止息」を利用した“込み”があっても良いのではないだろうか。実際に能の世界でそれが使われているかは知らないが、能を見ていると小鼓の掛け声などで、声を出して息を吐いたところから息を詰めて強い力を出すのを見たことがある。
「保息」と「止息」は同じ息を止める行為だが、表現にすると明らかに違いが出てくる。僕は、この二つはそれぞれ無意識に通じる通路になりうるのではないかとさえ考えている。
役者の皆さんは是非自分なりにこの両者の違いを突き詰めてみていただきたい。
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