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『演技と身体』Vol.23 感情と身体② 没入的な演技の危険性

感情と身体② 没入的な演技の危険性

感情の本質はどこに?

前回は感情を3つのレベルに分けて説明し、“身体性の感情”と“非身体性の感情”があることを説明した。

“非身体性の感情”というのは例えば小説を読んだ時に経験する感情だ。その状況が物理的に迫ってくることなし(非状況依存的)に、想像だけで感情を経験する。これは人間以外の動物にはできそうもないことだ。非常に高度な感情体験なのだ。しかし、人間だけに許された高度な感情体験であるということは、裏を返せば感情体験の本質だとは言えないのではないだろうか。なぜなら人間以外の動物にも感情はあるからだ。むしろ人間と動物が共通に持つ感情レベルこそが感情の本質なのではないだろうか。

“今ここ”との関係

ここで一つ補足をしておく。〈非状況依存的な感情〉を“非身体性の感情”と名付けたのは少し厳密さに欠けるところがあったかもしれない。小説を読んでいる時でも、涙が出たり胸が締め付けられたり、体内で身体変化は起こりうるからである。その意味では〈非状況依存的な感情〉も身体性の変化を伴った感情と言える(そもそも感情はすべて身体変化に起因する)。
しかしここで言いたいのは、想像による感情体験は、その発端がフィジカル(物理的=身体的)な知覚に依らないがゆえに、周囲の現実的な状況(“今ここ”)との相互関係の回路が絶たれてしまっているという意味で“非身体的”なのだということだ。
電車の中で急に悲しいことを思い出して泣くということは(もちろんそういうシーン・演技もあるだろうが)、それを観ている人間にとっては唐突過ぎてすぐには共感できないことだろう。なぜなら電車内の状況と関係を結んでいないからだ。
頭で想像することによって感情を呼び起こす演技は方法の一つではあるにしても、演技の基本とするべきではない。感情というのは本質的には周囲との“今ここ”における相互関係の中で起こる現象なのだ。だからフィジカル(物理的=身体的)な知覚を発端とした“身体性の感情”を重視する姿勢には変わりはない。

〈没入的な感情〉に伴う危険性

“身体性の感情”には〈没入的な感情〉と〈想起的な感情〉があることは前回説明した通りである。
例えば、暗闇の中でわけも分からずに暗闇それ自体の恐さに溺れてしまっている状況が〈没入的な感情〉、暗闇が想起させるイメージ(誰かに襲われるなど)を恐れる状況が〈想起的な感情〉である。
この二つの違いを演技の面から考えてみよう。
〈没入的な感情〉に自らを追い込んで演技をする役者もいるし、そうした方法論もあるようだ。迫力や切実さ、必死さを引き出すのに非常にリアリティがあるからだろう。しかし、端的に言ってこれは技術ではないしとても危険な方法だと思う(そもそも技術とは危険をある程度制御した上に成り立つものだ)。

〈没入〉=「変身/ミミクリー」

「役に成り入る」ということには2種類ある。一つは「変身/ミミクリー」でもう一つは「模倣/ ミメーシス」だ。「変身/ミミクリー」というのはイモムシがサナギになり羽化してチョウになるような過程を言う。「模倣/ミメーシス」とは動物が擬態をして環境に溶け込む様子を言う。
演技においては「変身/ミミクリー」してしまった方がリアリティがあって良いと思うかもしれないが、それには危険がつきまとう。「変身」してしまうということは元には戻れないかもしれないということだ。そして〈没入的な感情〉に溺れるということは、その役に「変身」してしまうということに他ならない。それが感情的に危うい役であった時に、〈私〉自身がその感情を無防備に経験してしまうことになる。そしてそこで経験した傷はもはや「変身」して〈役〉と同一化してしまった〈私〉自身にとっての傷として残ってしまう。まして、演出家が役者を追い込んで没入状態を無理やり作り出すことは暴力以外の何物でもない。
古来からシャーマンという職業の人たちはこうした「変身」を技術として発達させてきた。しかし多くの社会ではシャーマンは選ばれた人しかなれないものであり、また厳密な儀式的な手順を踏んだり、麻薬や薬草を使用したりすることで、「変身」の時間を可逆的で一時的なものにしている。そして危険であるがゆえに社会の中で高い地位を与えられているのだ。
役者はシャーマンではないし、役を演じた後には必ず自分の人生に戻ってこなくてはいけない。だから、こうした〈没入的〉な演技をするにしても、自分に戻ってくる方法(例えば瞑想など)を見つけておく必要がある。

「模倣/ミメーシス」

他方、「模倣/ミメーシス」は「変身」とは違う。動物が環境に擬態をするということは、動物自身であるということを投げ出さずに同時に環境と溶け合っている状態だ。つまり〈私〉であることと〈環境〉に成り入っている状態が二重化しており、いわば「私ではなく、私でなくもない」という奇妙な状態になっている。(このように〈私〉であることを保ったまま別のものと融通無碍になった状態を仏教では事事無碍法界と言う。)
例えば旧ソ連地域に住むユカギール人という狩猟民族は、エルクという大鹿を狩る際に、自身の姿や動き方や行動を限りなくエルクに似せることで獲物の思考を読み、狩を成功させる。エルクを「模倣」するのだ。この時、獲物であるエルクに感情移入のような感じを抱くのは分からない話ではない。だが、ここで完全に感情移入してエルクに「変身」してしまうと、エルクを獲物と見なくなってしまい、自分がエルクに殺されることになったり、人間の社会に戻れなくなってしまったりする。だからユカギール人は決して「変身」せずに「模倣」に止まることに非常に注意を払っている。自分が自分=人間であることを忘れてはいけないのだ。
同じ理由で、役者が〈役〉に没入し切ってしまうしまうことには大きな危険が伴う。

“今ここ”を正しく受け取る

また、〈没入的な演技〉は、これもやはり独りよがりな演技に陥ってしまう危険がある。〈没入的〉であるということは、“今ここ”の状況に根ざしていることには間違いないが、それを正しく受け取れていないのだ。
暗闇の中でわけも分からず暗闇それ自体の恐さに溺れてしまうということは、暗闇(対象)をうまく認識できていないということだ。同じように、演技の際に“今ここ”の感情に溺れてしまうということは、それが表現としてどう映るかということが見えなくなることであり、撮影の安全性・自分や相手の役者の安全性を脅かすことであり、相手の役者の表現を殺すということにもなりかねない。
さらに、そうしたある意味で「本能的な」演技というのは技術的な蓄積が得られないため、その時は良いものが引き出せたとしても長いキャリアの中では意味をなさない。現場や作品の偶然性に依存するのでムラがあり、過去の名演にいつまでもすがることにもなりかねない。
世阿弥も、こうした「本能的な」演技というものは素人芝居と差がないものであるとして、芸の位においては「下三位」という一番下の位に置いている。(ただ、芸を極め尽くしたものが敢えてこうした「本能的な」演技をすることは面白味があって良いとも言っており、一概に否定しているわけでもない。)

残るは〈想起的な感情〉

前回の話と今回の話をまとめると、まず〈非状況依存的な感情〉というのは“非身体的”な知覚によるもので、“今ここ”との繋がりが保てないために表現として伝わらないものになりやすい。また人間のみが持つ高度な感情体験である一方で感情体験の本質とは言い難い。
感情体験の本質は“身体性の感情”の中にあるが、〈没入的な感情〉は迫力やリアリティの点では勝るが、“今ここ”を正しく認識できないために、表現として独りよがりなものになる可能性もあり、また精神的な面での危険も多い。本能任せになりやすく、技術的な蓄積が望めないものである。

そこで残された道は、〈想起的な感情〉だけとなる。
次回、この〈想起的な感情〉を基礎とすべき理由や、その上で〈非状況依存的な感情〉をどう活用するか、それを技術的に蓄積するとはどういうことなのかについて書いてみたいと思う。

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