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『演技と身体』Vol.14 表情について①

表情について①

表情はコントロール可能か

顔の表情は言わずもがな演技における最も重要な要素の一つである。
感情は目に見えないが、表情は目に見える。だから、演技に限らず日常でも私たちは顔の表情を通して相手の気持ちを推し量っている。しかし、それだけに人はみな表情を読み取る能力に長けており、そこに嘘臭さがあるとすぐに違和感を察知できる。
すると表情を演技の表現として扱うというのは実は思っている以上に高度な技術の要求される繊細な領域なのかもしれない。
演技の場においては表情というものがあまりに自明のものとして扱われてきた。しかし、表情というのは一体どのくらいコントロールが可能なものだろうか。
哲学者の鷲田清一は著書『ちぐはぐな身体』の中でこのように述べている。

からだって、こまったものだ。
(中略)
背中も見えないし、後頭部も見えないが、なんといってもいちばん困るのは、顔が見えないこと。鏡にしたって、かまえた顔、予定どおりの顔しか見えない。他人に向けられたじぶんの生の顔はぜったい見えない。その顔、じぶんの感情の微細な揺れがそのまま出てしまうそのじぶんの顔を、ぼくらは、コントロール不能なまま、それをそのままいつも他人にさらしている。

鷲田清一『ちぐはぐな身体』(ちくま文庫)

ここで述べられているように、表情とは本来コントロール不能なものである。それを演技という表現に用いざるを得ないということにはどのような困難があるのだろうか。

表情とは”感情のいちばん外側の部分”

第一に表情とは”感情のいちばん外側の部分”であるということができる。
”感情の表出”ではなく”感情のいちばん外側の部分”という言い方をするのには訳があるので、少し説明させて欲しい。
これはこの連載を通して言いたいことでもあるのだが、「まず感情があってそれが表情・身体などの動作に表れて出る」というように順序立てて考えるのは誤りである。この考えは、国語の文章読解においては正しいのだが、それは文章が言葉を離れて存在できないからだ。言葉は順序があるという都合上、感情→身体とせざるを得ず、その二つが因果関係で結ばれているように思えてしまうのだ。そして私たちはそうした言葉の世界にあまりに飼い慣らされ過ぎてしまっている。言葉によってコード化された身体から抜け出そうという話は第10回の記事に書いたとおりである。
言葉を覚える以前の赤ん坊は、まさに感情と身体が一体化している。「お腹が空いた。だから泣く」などという因果関係はそこにはない。彼らにとって「お腹が空いた」という感情と「泣き喚く」という行動はまったく同じことだ。そこに生命の本源を見るならば、”感情即身体 身体即感情”という境地が目指されるべきだ。
だから表情とは感情の”表れ”なのではなく感情”それ自体”であると考えるべきであり、精神と身体が一体化して感情そのものとなった時、顔の表情はそのいちばん外側の部分であると考えることができる。

表情と内臓

また、感情は生体学的に見ると環境と”内臓反応”の関係を表象したものである。(第8回を参照
そして、以前説明したように、顔の筋肉は生命が陸に上がったときにエラが退行してできたものであり、いわば内臓の先端部である。
つまり表情が動くことは内臓反応の一部である
すると、顔と内臓をまるっと一つの感情と考え、一緒に動かすことが大切だということになる。内臓がちゃんと反応していないのに、表情だけが動くというのは感情の一部、それも先端部だけを動かそうとしているということになる。鞭を振る時、先端だけ動かしてもうまくいかないのはわかるだろう。

当たり前の結論に

以上に述べてきたことから、表情は感情(内臓反応)の一部であり、そこから独立して表情だけを考えることはできないということがわかる。だから、結局表情をよく動かすためには感情をよく動かすことが大切であり、感情に嘘がなければ表情もまた嘘のないものになるという当たり前といえば当たり前の結論にたどり着くのである。とはいえ、それじゃあ演技に技術もクソもなくなってしまうので、そうした技術論は次回しようと思う。(嘘のない感情を演技で作るにはどうすれば良いかについては第8回第13回を参照)

「作り笑い」はコントロールされた表情か

しかし、他方で私たちはじぶんの表情をコントロールしようとすることもある。たとえば「作り笑い」。しかし、「作り笑い」とは感情なのだろうか。感情なのだとしてもどのような感情なのだろうか。それが喜びや好意の感情ではないことはわかる。じゃあ何か。それは不都合な感情を隠そうとする感情のではないだろうか。緊張や不満や怒りなど、その場にふさわしくない感情が沸き起こってしまった時、それを隠すために作った笑顔が「作り笑い」だ。だから、作り笑いも厳密には感情そのものであり、本当の意味で作られた表情とは言い難いが、表情をコントロールしようとするものであるのは確かなので便宜上”作った表情”であるとしておこう。
ともあれ、普段から私たちが表情を”作って”生活しているのだとすればそれは私たちがいかに感情を隠して生活しているかを表すものである。
このような”作った表情”というのが演技のある面において有効なのは確かだろう。しかし、その場合でもやはり表情がコントロールできているとはいえない。というのも、作られた表情は何かを隠そうとするが、完全に隠せるわけではないからだ。隠そうと抑圧された感情は、押さえ込まれれば押さえ込まれるほど強く反発し、噴出しようとする。そうしたせめぎ合いの中で最終的には「作られた表情」と「隠しきれない感情」の総合(混合)としての感情が噴出することになる。結局、表情をコントロールしようという企ては失敗に終わるのだ。だから、演技においても表情をコントロールしようと思うのはナンセンスだ。

表面的な演技に陥らないために

じゃあ、演技においては表情はどうにもしようがないのかと言えばそうでもない。これまで述べてきたことは態度の問題であり、技術的にできることは多くある。
次回、顔の表情についてそうした技術的なことを書いていこうと思うが、表情だけをこねくり回して何かを表現しようとすることは非常に表面的であり、よくよく注意しなければいけないということは強調しておきたい。
観世寿夫によると、能面というのは表情の否定に他ならないが、それは感情を表面的に表現しようとする態度を封じ、からだ全体で表現しなければいけなくなる装置であるという。
表情に頼った演技をすれば必ず身体はおろそかになる。あくまで身体全体を一つの感情とし、その感情のいちばん外側として表情があるのだということを覚えておかなければならない。

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