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『演技と身体』Vol.10 身体の脱植民地化

身体の脱植民地化

「気をつけ!」「休め!」「前へならえ!」

今回は身体の脱植民地化というテーマで書いていこうと思うが、脱植民地化するということは身体が植民地状態にあるということが前提となる。一体誰の植民地だというのだろう。
それは「ことば」である。
哲学者のミシェル・セールは著書『五感 混合体の哲学』の中で、「ことば」こそが人間の感覚を麻痺させてきたのだと述べている。しかし、「ことば」が身体を植民支配しているとはどういうことか。
簡単に言えば「気をつけ!」「休め!」「前へならえ!」というあの号令である。誰にでも覚えがあるだろう。これらの号令の下成長してきた私たちは身体をことばで捉えることに慣れきっており、常にことばが身体に先んじるようになっている。

身体は頭よりも頭がいい

近代になって心身二元論が説かれ、精神こそが身体の主人なのだという考えに基づいて社会は発展してきた。この考えの下で身体は精神に従属してきたのだが、それは身体の本来持つ自由さや可能性を強く制限するものだった。
「気をつけ」「直れ」「前へならえ」。こうしたことばは身体というものを単純に捉えすぎている。身体というものはもっと自由で複雑な律動性を備えたものだが、その複雑さは頭では理解しきれない。だからことばというのは身体に対して、少なくともことばにできるものの範囲でしか指示することができず、それは身体の可能性のごく一部でしかないのだ。
そもそも人間の頭の中で考えられることなんて程度が知れている。それに対して身体は生命が進化の過程で蓄積してきた知恵の宝庫なのである。バカな上司が有能な部下に指示を出し、部下も部下で本来有能なのに、上司に言われたことしかやらないという場面をイメージするとわかりやすいだろう。そのうち部下の能力も発揮されないまま眠ってしまう。
身体の構造やその機能はいまだに研究が続いているくらいなのだから、それを理解して使いこなすなんて一個人にはとても無理な話だ。それよりも身体をある種の自然であると考え、できるだけ自由にさせておいた方がずっとうまくいくのだ。

ことばは自由からは程遠い

そもそもことばとは物事の意味を限定するために使うものだ。「ネコ」ということばはネコをネコ以外のものから切り分け、判別可能にする。もちろんそれはそれで社会生活に欠かせない。「ネコ」ということばが自由に何でも指し示すことができてしまったら何の役にも立たない。つまりことばは自由ではないからこそ役に立つのだ。だから、身体がことばに従属している状態ではやはり身体の持つ機能や意味がことばによって限定されてしまうのだ。身体がことばの指し示す通りに動くだけであれば、芝居は必要ない。ことばで伝達すればそれで済むのだ。しかし、ことばで伝達しきれないニュアンスというものがある。それを表現するのが声や身体なのだ。だから、身体は常にことばから漏れ出ていなければならないのだ。

意味以前の動きと響き

演技というのは最終的に「こころ」で行うものである。しかし、それは常に身体を介してのみ表現される。すると、「こころ」を表現するためには「こころ」と「身体」が一致していなければならない。演技をする時に身体を忘れるほどでなければならない。しかし、そのためには身体はことばの桎梏を逃れ自律的に制御されていなければならないのだ。
能の大成者・世阿弥は、稽古はまず舞と歌の二曲から始めなければいけないと言っている。つまり、いきなり役(演技)の稽古に入るではなく、その前に身体の動きや声の発声を徹底的に磨くべきだということである。このことについては天才能楽師であった観世寿夫も、いきなり役の稽古から入った役者は大成しないと指摘している。
思うに、これは役がついた時点で身体の動きや発声に意味が生じてしまうからなのではないだろうか。意味とはすなわちことばである。つまり、役の稽古から入ると、いきなり意味(ことば)によって限定された身体の動きを学ぶことになってしまうのである。
すると舞歌の二曲より稽古を始めるというのは、意味(ことば)によって限定される以前の自由な身体や声というものを習得しなければならないということなのだと思う。
第一回の記事でも触れたが、例えばどんなに歌詞やメロディのいい歌でも、歌や演奏が下手であったら聴いていられないように、意味以前の動きや響きを高めていかなければ演技は独りよがりなものになる。そして、「気をつけ!」「前へならえ!」と言われて教育されてきた我々の身体は、自分たちで思っている以上にことばによる支配を受けて、限定された可能性の中を生きている。それがデフォルトになっているので、無意識ではことばからの支配を逃れられない。身体が自律性を手に入れるためには、徹底して身体を修練しなければならないのだ。日常でもそうだ。長時間座って作業をして疲れて身体を伸ばした時のあの不定形で捉えようのない身体の自律性を生活の中でもっと取り入れる。頭で考えた振り付けを踊るのではなく、音楽に身を委ねて身体をくねくねと動かしてみる。

捉えどころのない身体と向き合う

こころというのは、非常に抽象的で曖昧なものだ。他方でことばは記号的で明瞭だ。身体という具体物をこころという抽象的なものに近づけるのは簡単ではない。しかし、身体をくねくねと自由に動かしてみると、具体的で明瞭に思えていた身体というものが何だか捉えどころのないもののように思えてくる。東京芸術大学名誉教授であった体操教師・野口三千三は人間の身体は液体であり、気体であると言う。確かに、私たちの臓器は液体や気体で満たされている。ミシェル・セールが「混合体」と言い表したように、私たちの身体は本来、個体・液体・気体が入り混じった曖昧で捉えどころのないものであるはずだ。
演技者は、この曖昧さと向き合い、意味が付与される以前の身体の動きを手に入れなければならない。どうすればいいかは簡単だ。意味のない動きをすればいい。できるだけ意味のない動きを。生活上全く必要のない動きを。そのようにして意味以前の身体のダイナミズムを獲得した上でなければ、どんなに意味深い演技も表現にはならない。逆に、意味から逃れた身体の律動性を備えた役者においては、動き即こころ、こころ即動きとなる。
ただ、ことばに抵抗するためには、我々の感覚がことばによって支配されてしまっている現状をまず言葉で理解しなければならないのである。
このようにして記号(コード)から逃れることを脱コード化という。この脱コードという考えは、身体の動きだけでなく役作りをする上でも欠かせない考え方である。そのことについてはのちに触れることになるであろうが、是非理解しておきたい考え方である。

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