見出し画像

『演技と身体』vol.1 演技は芸術なのか

演技は芸術なのか


映画は芸術か?演技は芸術なのか?
そう問われるとふと考え込んでしまう人をしばし目にする。しかし、どうせ答えなんて決まっていないのだから、それぞれがそれぞれの都合の良いように決めておいたら良い。そのことで思い悩む必要もないし、悩むのもまた自由だ。
僕にしてみると、映画は芸術だし演技も当然芸術である。
じゃあ、芸術とは何か?これもまた簡単だ。
「芸術は爆発だ」
それに尽きる。
爆発というのは、広がってゆく運動そのものだ。だから芸術というのは、人間の可能性を広げるべく、”人間の外”に向かって手を伸ばす行為なのだ。

なぜ身体なのか

曖昧な心

演技にもいろいろあるが、まずもって人間の心にまつわる表現であるといって間違いないのではないだろうか。しかし心とは大変厄介である。例えば「心はどこにあるのか」と聞かれてはっきりと答えられる人はあまりいないだろうし、はっきり答えられる人がいたらそれはそれで怪しい。
心を問題にすると、誰もはっきりとしたことを言えないので、それ以上深く考えずに済むし、まあ結局人それぞれだよね!としておけば波風も立たない。だがそれは表現者としていささか怠慢なのではないかと僕は思ってしまう。
もちろん心についても考え続けることが大切だが、やはり曖昧さが大いに残る。では、身体ならどうだろう。身体は明確に鍛えることができる。そもそも心と身体って僕らが普通思っている以上に深く関係し合っているし、なんなら繋がっているんじゃないだろうか。

動き、響き

例えば野球を見ていて面白いと思える理由はいくつかあるだろう。試合の流れや戦術、記録や選手個人のドラマなど。しかし、それ以前にまずボールをぶん投げて、そのぶん投げられたボールをバットでぶん殴るというところに気持ち良さがある。ルールや試合の流れが分からなくても、そのぶん投げる、ぶん殴る行為を見て我々は興奮しているのではないだろうか。そして、野球選手の超人的なパワーは人間の可能性を切り開くものだ。
演技にも同じことが言える。芝居の流れやその背後にあるテーマも大切だが、それ以前に身体の動きや声の響きがそこにある。いくら心についての深い想いがあっても、動き・響きで表現できなければ仕方がない。そしてそれが芸術であるためには、人間の可能性を広げる動きや響きでなければならない。つまり、演技においては日常の身体性では不十分なのだ。”ありのままのわたし”で表現できることはあまりに少ない。
だが、闇雲に身体を鍛えれば良いわけでもない。身体は壊れやすい。(ちなみに鍛えるとは筋トレのことではない)
芸術は”アート”とも言うが、武芸のことをマーシャルアーツと言ったり、自由学芸のことをリベラルアーツというように、アートとは”芸”を指すやや広い意味の言葉のようである。”芸”には流儀がなければならない。
演技のための身体性、そしてその流儀をそれぞれが見つけて獲得することで、演技は芸術たりえるのではないだろうか。
実情として役者が現場で提案できることはあまり多くない。誰も役者をアーティストとして見ていないし、役者自身もそう思ってその場にいるわけではないからだ。しかし、役者がアーティストとしてカメラの前や舞台に立つなら、芸術はもっと前進するはずだ。だから僕は言うのだ、演技は芸術であると。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?