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18. 秋山晶全仕事 マドラ出版

古本好きの人はなぜ、同じ本を買ってしまうのだろう。自分を振り返ってみても、色々な理由が思い当たる。
まずひとつは、単純に持っているものより状態が良い場合。これにはただきれいということの他に、帯がついている、別冊がついている、ということもある。場合によっては、本はこっちの方がきれいだけど、こっちは帯がついているという時に、きれいな本に帯を巻き直し、帯の無いきれいではない本が出来上がったり、きれいな方の本体にきれいな方のカバーを巻き直して、きれいではないカバーが巻かれたきれいではない本が出来上がったりするが、これは古本好きにとっては大きな罪悪感がある。
それは、古本というのはその本全体でひとつのストーリーをなしているように思えるからで、例えば、いつかの石神井書林さんの目録に出ていた小山清旧蔵書の庄野潤三「愛撫」は、当然小山清宛の署名があったが、背の日焼けが進行して帯も無かった。内堀さんのすごいところは、その本の説明文のなかで、日当りの良い本棚に置かれた本との幸せな時間を想像しているところで、つまりこの本の価値は日焼けしているカバー含めてであって、他から取ったカバーや帯を巻き直しては決していけない。
ただそれほどのストーリーが全てにあるわけではないので、そのような行為をしてしまうことはよくあるが、多かれ少なかれどんな本にもストーリーはあるはずで、それを分断することに罪悪感を感じるのだろう。それでも将来的には、巻き直されたことさえもストーリーになるのかも知れないが。ともかく、より状態の良いものを欲しくなるほど好きな本があるというのは幸せなことだと思う。
そしてもうひとつの多い理由が、簡単に言えば、かつて自分が買った金額より安い値段で売っている場合だが、これには様々な事情がある。
まず、あまり好ましくない理由として、売れば買った金額より高くなるとき。いわゆるセドリのようなことだけれど、それを生業としているのならまだいいが、売る気もないのにそうするときがある。いや、売る気はあるのかも知れないが、当面は売ることもされず、部屋には売れば買ったときの金額より高くなるであろう本が転がることになる。欲しかった本なら、金額が高いはずである本を安い金額で手に入れられて、その差額分の本がまた買えると喜べるのかも知れないが、話は重複して買う場合だ。よっぽど立派な本棚を持っている人ならともかく、大抵の人はその本が既に本棚に入っているなら、売るであろう本を棚に入れることはしない。これから読む本や読み終わった本を積むタワーに、読まれも売られもせずにただそこに置かれることになる。これは読まれることや大切に所有されることを待つ本に対する冒涜のように思えるが、本能的・衝動的にやってしまうのだから仕方がない。それにその時のうれしさというのは、なかなか麻薬的なものなのだ。
金額が原因のもうひとつの理由は運命を呪うときで、誰しも探している本があり、それは納得できる金額で売っているのを待っていることもあるが、一度も出会ったことがない本であることが多い。そして出会ってしまったら最後、多少の金額には目をつぶって買ってしまう。買った後悔より買わなかった後悔の方が大きいということを知っているから。そして、今まで一度も出会ったことがなかった本には、出会った後にまた出会うことになる。これが運命を呪うときで、分析するに、欲しい本の表紙は知っていても背表紙を知ることはあまりなく、見つけたときに背を認識することにより、多くの本の中からその本を発見しやすくなるからだと思う。
それはそれとして、二度目の出会いを無視することはできず、恐る恐る棚から抜き裏表紙をめくると、基本的には先に買ったときよりも安い値段がついているもので、そして基本的には買ってしまう。そのときには、例えばこんな言い訳をする。もし別の並行世界が存在するならば、自分はこちらの本と先に出会っていたはずで、その並行世界に今いるとすれば、買わない理由はない。または、先に買った金額とこの本の値段を足して二で割ったら、先に買った金額よりも安くなる。これはお得だ、買うべきだ、と。どちらも何の理由にもならないが、そう言い聞かせなければ買った後悔をしてしまうから、それだけはあの時の自分や先に買った本に申し訳なくてできない。つまり、買った後悔も買わなかった後悔もしたくないから買うのだろう。
こうやって色々な理由をつけて、かつて買った金額よりも安い金額で同じ本を買うが、他にはやや切ない理由で買うときがある。それは値崩れが起きている本に出会ったときで、高いわけではないが少なくとも紙幣で払う金額で扱われていた本が、インターネットの普及によってか、金額が高い本と安い本の差がはっきりとしてしまい、高くない本はつまり安い本ということになり均一に置かれることが多くなったように感じる。かつて欲しくて買った本も、ふと見ると均一棚に切なく置かれていて、それでも手に取られる様子もなく埃を被っていると、捨てられた子犬や子猫のように見え、おおよしよし寒かったろうと拾っていくことがある。ただ、そこで手に取られないと本当に処分されてしまうことはあるはずで、持っているまたは持っていた身としてはとても切ない。それで、助ける気持ちで買っていくのだが、結局どうするわけでもなく、誰かにあげようとか、適正な金額で扱うだろう本屋に売ろうとか考えているうちに、同じく部屋に転がることになる。
挙げた「秋山晶全仕事」は、秋山晶のことも本の存在も知らなかったが、知ったときには、こんな人がいてこんな本があるということに感激し、すぐに手に入れたくなった。ただ、短くはない古本人生のなかでも見た覚えがなかったので、日本の古本屋で探し、ただ一冊出ていた予約制の本屋へ出向いて買った。けれどそのすぐ後に池袋西口の古本市で、決して安すぎることはなかったが先に買ったときの半分の値段で、しかも帯付きで売られているのを見つけ、上記の様々な理由をつけて買った。
そうやって、二冊持っている、あるいは持っていたことにもそれなりの物語があり、古本人生に彩りを与えてくれていることを感じる。とはいえもう少し他の何かで彩りを加えたいものだと、つくづく思う。

#本 #古本 #秋山晶 #小山清 #庄野潤三 #内堀弘

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