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誤読を「誤読」する #Takramcast

こんにちは、石田です。

Takramcastに参加しました。こちらからお聞きいただけます。

このnoteは、Takramcastに僕なりの「ききかた」を提供してみることで、いろんな角度からTakramcastを楽しんでもらえるといいな、というものです。今回の話は少しややこしかったので、ちょっと補足も。

四つの彫刻の類型

ロバート・アーウィンというアーティストが、彫刻と周辺環境について四つの類型なるものをだしています。

一つ目はSite Dominant。敷地のことを考えずに作られた彫刻。敷地を支配する彫刻。

 2つ目、Site Adjusted。敷地にある程度合わせたもの。

3つ目、Site Specific。特定の敷地でしか成立しないもの。

4つ目、Site Determined。敷地を決定づける彫刻。千葉学の解釈によれば、Site Determinedは「彫刻を置くことによってその敷地の意味が了解される、あるいはその彫刻が、そこに新しい敷地環境を生み出す」ということ。

僕の理解は、Site Determinedは、その敷地が前からもっていた性質が彫刻によって顕在化されるようなイメージです。

ある人がネガティブだと思っているポイントを、別な言い方を与えてあげることでポジティブに読み替えていけるようなイメージをもっています。

例えば「自己中心的である」ことを、「ほかの人に流されない芯の強さをもっている」といえるみたいに。性質自体は元から変わっていないけれど、言葉を与えることで「新たな意味」で了解してもらうことができます。

Site Determinedと読めるかもしれない事例をあげてみます。

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恵比寿のMA2ギャラリー。これは、交差点の角に立っています。建物の中は螺旋状になっていて、上のフロアへ行くたびに違う角度の交差点の景色が窓からみえるように設計されています。

普通交差点は、2つの流れが交わる場所、あるいは4つの通りがぶつかる場所、として捉えられるかと思います。

この建物では階段を上がっていくたびに、交差点を違う角度(窓)から眺めることができ、交差点が「角度の異なる景色の集合体」であると感じることができます。

交差点を「4つの道路がぶつかるところ」から「4つの景色の集合体」へと読み替えさせる建築、ともいえるわけです。

ともあれ、僕はcastでSite Determinedは「建築の中では新しい概念かも」といったのだけど、このへんの「新しさ」については難しいなあと思っています。

Site Determinedを読み手の「創作物の理解のしかた」としてとらえるのか、語り手の「創作のステートメント(意図)」としてとらえるのかによって「新しさ」は変わる気がしているのです。だからもちろん、すでに建っているものを「Site Determined」と読むことはできると思いますが、「創作の意図」としては新しいのかもしれないし、事例はあるのかよくわからないところもあります。

要するに「読み替えることができる」ということは、語り手の「意図」と読み手の「理解」が混じり合っている気がするのです。

ちなみにSite Determined自体は、アートの文脈では割と古い概念だと思います。

Site Determinedとコンテクストデザイン

TakramcastではコンテクストデザインとSite Determinedの話を展開する中で、森岡書店について話しました。

森岡書店は「一冊、一室」のコンセプトで一種類だけの本を売る銀座の書店です。

売っている本と売ってない本があるなかで、「探してる本に出会えなかった」ではなく「限られたなかで今存在している本に出会っている」という状況の読み替え

森岡書店のデザインは「選択肢がない」ということを「それは出会いだ」と読み替えさせているとも言えます。

森岡書店によってもたらされるその読み替えは、「売っている本があったりなかったりする」という社会的に一般的な文脈を敷地として、その状況に新たな見方を与え、新たな形で受け手に了解させているとみることができます。

森岡書店に行ったあとでは、普通の本屋さんで見慣れない本(しかし普段なら興味をもちそうもない)を見かけると、これは出会いかなと考えてしまうことがふえました。

上で触れたように、読み替えというのは語り手の意図と、読み手の理解が重なり合って成立するので、コンテクストデザイナーはそうした「読み替え」を促す人とも言えるかもしれないと思ったのでした。

考えてみると、文学で描かれる文章は必ず文脈があり、センテンスは何かしらの文脈と呼応し合うように描写されます。そうして心理描写やキャラクターの特性、物語の背景を編み込みながら、ありがちな状況を新しい意味で了解させ、僕らの脳内に描かせたりします。

そうした文学の中で起こっていた編み込みと読み替えを敷地と彫刻にもっていくとSite Determinedという概念になり、そして社会的状況とデザインという関係になるとコンテクストデザインという概念になるのかな、とも思うのです。

「意図」か「見方」か

「読み替え」は、読み手の誤読の一つといえるかもしれません。castでは情報の抽象化による誤読や、米田知子さんの写真における誤読と答え合わせなど、さまざまなコンテクストの重なり方について話が広がりました。

この「誤読」って、僕はとても大切な概念だと思うのです。建築の中でも「コンテクスト」とか「文脈」とかって言葉は実はよくでてきます。「土地のもっているコンテクスト」とか「歴史という文脈」とか。

で、僕が思うに建築で言う「コンテクスト」って、歴史とか土地とか少しスケールが大きい気がします。渡邉さんの言葉で言うと「強い」のかもしれません。

来てくれた人や普段のユーザーがもつ個人的な「弱い」コンテクストが、建物やそこに配置されているプロダクトなどのコンテクストとどう呼応しあい、どう建築という”体験”を誤読の重なりの中でつくりあげていくのか、ということに僕は興味があります。

もちろん建築の中でも「受け手に委ねられた空間の利用」という考え方はあります。でも多くの場合、僕にとってそれはとても茫洋とした概念にみえるのです。自由度が高いだけにみえるというか。

森岡書店の話の中ででてきた「一度、一冊というところに人が集約することで、同床異夢が起こり、むしろその集約によって多様性が広がる」といった、解像度の高い強い文脈と弱い文脈の呼応について考えることにとても意味がある気がしています。

こうした議論を建築の議論と結んで発展させていくことで、ユーザーにとって「あなただけの」、愛される建築ができる気がしています。

それは建物の話だけではなく、運営やプロダクトも含めて考えないといけないことは明らかで、そうした「全部」をなるたけ考えながらしっかりと一人一人に愛される建築をつくる手法の解像度をあげていきたいと思っています。

今回少し話がややこしくなってしまったところがあったので、整理と補足でした。

誤読の誤読

タイトルにもある通り、このTakramcastは「誤読」がテーマです。僕が常に思うのは、「誤読をどう誤読するべきなのか?」ということです。

ここで僕が「Site Determined」といったり、文学の話をしたり、米田知子さんの話をしたことはすべてただの勘違い、誤読なのかもしれません。人の文脈の紡ぎ方、渡邉さんが「誤読」とおっしゃることの内容、それを僕は誤読しているのかもしれません。

でもそれでもいいのだと思います。誤読そのものが多様で、個人的なものである以上、その手法も多様であるはずだし、誤読させる手法の解像度もまた、誤読によってしか上がっていかないのではないかと思ったりもします。

渡邉さんの頭の中には明確な手法があっても、ある意味では手法の誤読もまた語り手の誤読と読み手の誤読の重なりであり編み込みでもあるといえるのかもしれないし、それをコンテクストデザインと呼んでみることもできるのかもしれないということです。

今回は「誤読」をキーワードにいろいろ話したり考えたりしました。改めて誤読という言葉についての見方も少し変えつつ聞いてみてもらえると幸いです。

立ち位置

少し話はそれますが、僕は学生で、TakramのDirectorたちよりは多分時間があるかと思います。その分いろいろ頂いたコメントを深く考え直す時間もあるなあと感じています。

前回書いたときに多くの方に読んでいただけて、TwitterやMessangerなどで個人的にメッセージをくださる方も多くいらっしゃりました。そこで頂いたことを整理して渡邉さんに話したりもしています。

インターンとして出演するにあたり、聞き手と語り手の中間にあるような立ち位置で参加できたらと思っています。気軽に感想、コメントなど#Takramcastで、どうぞよろしくお願いいたします。

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