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再帰性(5):阪本(2007)の感想

今回の記事では,阪本(2007)を読んだ感想をまとめておきます。

読んだ論文はこちら:
阪本英二(2007):第12章同じ〈場所〉にいること—「当事者」の場所論的解釈—, 宮内洋・今尾真弓(編)あなたは当事者ではない—〈当事者〉をめぐる質的心理学研究—, 146-156, 北大路書房.

阪本(2007)の概要

阪本(2007)は,これまでの当事者という言葉が,外部からの観察によって判定できるような行動的な「カテゴリー」であり,ある体験世界を特別視して閉鎖的に囲い込み,越境不可能な「内側」という領域を切り分けかねないと指摘する。
そこで,きんしゃい通り商店街における自身の経験から,同じ〈場所〉にいることとしての当事者性を考えることで,「臨界モデル」を提案している。
「臨海モデル」とは,自己は他者とともに存在する〈場所〉からも規定されていることを,2つのコップにそれぞれ異なる色の水をゆっくりと注ぎ続け,ある瞬間(臨界)にそれが一気に溢れて,互いの水が混ざる1つの水たまりのような場に2つのコップが浸されることで表わしたモデルである。

図 臨海モデル(阪本, 2007, p.152)

この臨界モデルに立てば,当事者性は,〈場所〉的な問題として立ち上がってくる側面があることがわかる。このように,当事者性を場所論的な解釈で捉えなす阪本は,次のように述べる。
「『当事者』という言葉を,個人的に与えられる権利や資格あるいは宿命のようなものに結びつけることを離れ,当該の問題(問い)をただならぬおのれの問題として抱かざるをえない〈場所〉に存在していることとしてとらえることで,より多くの人が立ち寄り対話できる問題へと開かれるのではないだろうか。」

感想:理科室という場所の再考の可能性

これまでの理科教育研究では,理科室に持ち込まれる自然の事物¥現象や提示される科学的なモデル,子どもたちの配置などの物理的な環境としての理科室に焦点があてられることはあっても,理科室という場所から理科授業の当事者性が考えられたことはなかったのではないでしょうか。
阪本(2007)が示唆していることは,理科室という場所にいることやその歴史性から理科授業の当事者を再考することができるという可能性です。
以前,ドラマツルギーとオートエスノグラフィーの研究を進めているときにも感じたことだが,日常の理科授業の当事者は,理科教師と子どもたちなのであって,部外者(アウトサイダー)である研究者(私)には,日常の理科授業に潜む暗黙知(私の場合,当事者たちによる演技)ついて何か明らかにすることはとても困難だなぁと考えていました。
理科室という場所に理科教師や子どもたちととも存在しているという当事者性を考えると,「長い時間を過ごしたとはいえ,結局のところ,私は当事者ではない」と考え,悩みながらもフィールドで過ごした私に,少しの希望を与えてくれます。

吉田・小川(1998)が言及していたように,理科室という特殊な場所,空間そのものをもう一度議論の俎上に載せることも無駄ではないはずです。
やっぱりまたエスノグラフィー研究したいなぁ。

吉田達也・小川正賢(1998):理科室のエスノグラフィー(Ⅰ)―いかにして理科室の自明性に接近するか:その方法論的検討―, 茨城大学教育学部紀要(教育科学), 47, 43–58.


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