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たいていの行いは「自分のために」するものであって、むしろそうでなければ欺瞞であるとすらいえるのに、みんななかなかそれを認めたくないみたいだ。

人に優しくすることが「自分がいい人だと思われたいから」であることになんらの問題はないし、むしろそのほうが信用できるとすら思います。
誰かのために悲しむとき、それは誰かのために悲しむことができたという事実がほしいだけだと思っていますし、別にそれは悪いことではないでしょう。

こんにちは、みしぇるです。

自分が人のためにすることのどれほどが真に他人のためにしているのかということを考えると、ほとんどは自分のためだなと気付いてしまいますね。繰り返しになりますが、それは悪いことではありませんし、むしろ動機がどうあれ結果が他人のためになるのならその行動は正しいでしょう。

突然こんな話をしてもなんのことやらと思われるかもしれませんが、行動の利己性がもたらす他人への肯定的な影響に関する問題は、ぼくの生き方からは切り離せないトピックなんです。

ぼくは優しい人が好きですし、それゆえぼく自身も優しくありたいと考えて普段から行動しています。その結果としてどうやらぼくは周囲の人から優しい人との認識をまんまと獲得しているようなのですが、自分自身が優しくあるため、優しい人間だと思われたいがために振る舞った結果としてのそうした評価に甘んじてもよいものかといったことを考えます。
周囲の人からしてもぼくの行動によって助けられたり、楽しく過ごせたりしたのかもしれませんが、やはりぼくから見ればそのような周囲の人へのプラスの働きはあくまでも「優しくありたい」という利己的な思考の副産物でしかなく、少々後ろめたさを感じないでもないわけです。

人助けになるような行動の多くは、リターンを期待していると思っているのですが、これはぼくの性格が悪すぎるだけでしょうか。

いずれにせよ、他人への肯定的な影響があるのならその行動の動機は利己的であったとしてもなんら問題はないとは思うのですが。

ねむい。

では、また。

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