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AIカラーへの違和感

ここ1〜2年、白黒写真をAI技術でカラー化するTwitterアカウントを見かけるようになった。けっこう自然な感じに仕上がっていて、AIというのはすごいなあと感心する。

グレースケールの情報から実際のカラーをほんとうに復元できるのか。それとも近似したカラーを選んでいるだけなのか。そのへんの話は難しくてよく分からないが、ともかく面白いテクノロジーだと思う。

色のないものに色をつけると、昔の人がタイムスリップして現代にあらわれたような、あるいは逆に自分が昔にタイムスリップするような、そんな時空のゆがみを強烈に感じる。それを楽しむのがカラー化の醍醐味なのだろう。ありえないカラー写真を見ると、一瞬、現世からスピン・アウトしたような無重力感につつまれてゾクゾクする。

一方で私は、カラー化された写真を見るたびに、違和感というか、「そうじゃないだろ」という気持ちにもなる。心がざわざわする。これはなぜだろうか。

記録とは、コンテンツとメディアが分かちがたく結びついたものだ。私たちは、写真にうつった人を見ていると同時に、人がうつった写真を見ている。古い本を手にとったとき、文章を読みながら、活字のたたずまいや、紙の手触りや、装丁の雰囲気を味わっている。コンテンツとメディアは私の中でいつもセットだ。

だから、メディアが変われば、コンテンツは同一でも別の存在に生まれ変わる。書籍の文庫化は作品にまったく新しい命を吹き込むし、CDで聴いていた曲をサブスクで聴き直すときも、昔ゲーセンで遊んだゲームをその後プレステでやり、いまブラウザでやるときも、コンテンツとメディアの新鮮な関係がそのつど生まれる。メディアが変わるたびに新しい出会いがある。

白黒写真をカラー化する行為も、そんなふうにコンテンツとメディアを組み替える営みに見えるのだが、じつはそうではないと私は思う。白黒写真というメディアから、カラー写真というメディアに変換しているわけではない。白黒写真からコンテンツだけを引きちぎって、コンテンツに直接色を塗りつけているのだ。そこでは、メディアがないがしろにされている。

明治初期の彩色写真なんかは似た存在だけれども、あれは写真というメディアと絵画というメディアの境界線をめぐる冒険だった。

AIによるカラー化にはメディアがいない。コンテンツを本来の姿に近づけるのが目的で、コンテンツしか見ていない。コンテンツは真の姿に近ければ近いほどよいというコンテンツ至上主義である。コンテンツがメディアの影響を受けて独特の姿(たとえば白黒)になっているのは、克服すべき状態だと考えているのだ。

デジタルってそういうところがある。コンテンツとメディアの幸福な関係にズカズカと入り込んできて、コンテンツだけを連れ去ってしまう。そして、色をつけたり顔を動かしたり好き放題やる。

そんなデジタルの傍若無人ぶりを身もフタもなく見せつけられる疲労感にくわえて、それをちょっと面白いと思ってしまう自分も一方にいて、その矛盾でまた疲れる。

モノクロームの世界から引っ張り出されて、カラフルな令和の世界にいきなり連れて来られた人たちは、戸惑っているように見える。用がすんだら、はやくもとのメディアに帰してあげてほしい。