見出し画像

父の誕生日と機銃掃射

今日は父の85歳の誕生日である。昭和13(1938)年12月27日、和歌山県和歌山市で生まれた。ただし戸籍上は、キリがいいので昭和14年1月1日になっている。むかしの戸籍はそんなものらしい。

2017年4月10日に母が病気で亡くなって、父は6年半、所沢の家でひとり暮らしを続けている。体はじょうぶで、足腰もまだしっかりしている。ほぼ毎日、片道40分かけて所沢駅前のデパ地下まで歩き、年2回、ひとり旅をするくらい元気だ。今年の春もひとりで伊豆に行き、唐人お吉が身投げした場所を見た!と楽しそうに話していた。

でも、この6年で少しずつ老いは進行している。見てわかる。体の動きがなんでもゆっくりになり、こじんまりとしてきた。

88歳になったら施設に入ろうと言い合っていて、父もうなづいてはいるのだが、まだ自活に未練があるというか、施設に入るのは死の入り口だと考えているようで、たぶん気乗りはしていない。時間をかけて向き合っていきたい。

そんな父は、ときどき思い出話をしてくれる。早稲田の学生だった父と共立女子大の学生だった母は、和歌山県立桐蔭高校の同級生で、一緒に上京して同じ早稲田の町に下宿していた。だから母とのエピソードが多い。

母と一緒に、後楽園球場で王貞治のプロ入り初ホームランを見たこと。母と一緒に、樺美智子さんが亡くなった日の国会デモに参加したが、機動隊が見えたのですぐに走って逃げたこと。母は下宿の近くにある惣菜店でハムカツばかり買って食べていたこと。母がレポートを面倒くさがり、父が代わりに書いてあげたこと。母は卒論を書き上げたその日のうちに、参考文献をすべて質屋に売ってしまったこと。

これは大学時代のエピソードだが、もっと古い、小学生時代の思い出もいくつか語っている。その中にひとつだけシリアスな話がある。

たぶん1945年の7月か8月、クラスメイトと小学校から帰る途中、とつぜんグラマン戦闘機が飛んできて、機銃掃射を受けた。みんな散り散りになって必死で逃げて、最後は夏みかん畑に飛び込んで身を隠し、全員、撃ち殺されずにすんだという。父が6歳のときだ。

米兵はふざけて撃っただけかもしれないが、もし本気で子どもたちを殺そうとしたのなら、腕が悪かったのを神に感謝したい。上手だったら、私はこの世にいなかった。

その米兵の子どもがいたら、いま70歳くらいだろうか。アメリカのどこかに住んでいるのだろう。直接会いに行って、あなたの父がヘタクソだったおかげで、私はこの世に存在しているのですと感謝を述べて、ハグしたい。

遠い国の知らないだれかの、80年近く前の、ある日のある行動の結果によって、自分の存在の有無が決まっているなんて、とても不思議な話だ。

今日のNHKの朝ドラ「ブギウギ」が空襲の話で、それでふと思い出して書いてみた。

先の戦争では民間人が山のように殺された。悲惨なことだ。母方の曾祖母は、1945年7月9日の和歌山空襲で死んだ。家屋の破壊がひどく、なきがらも見つからなかったという。

ウクライナやパレスチナの惨状を見て、こんなおろかなことは絶対にあってはならないと強く思う。とはいえ、戦争は相手があって始まるものだから、こちらがどんなに平和主義を貫いても、向こうが攻め込んできたら応戦せざるをえないわけで、けっきょく、そうなる前の段階でどう折り合いをつけて、したたかに取引していくかがすべてなのだろう。

それでも、うまくいかないときはいかないのだから、国際関係はむずかしい。

1961年初めごろの父と母

※バナー画像は2018年12月、父の80歳の誕生日のときに、行きつけのイタリア料理店に作ってもらったケーキ