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SNS使い分け問題

私はいろんなアプリで情報発信していますが、ときどき、種類が多すぎて頭が混線することがあります。

整理のために図をつくってみました。

色のついた楕円がオリジナルコンテンツです。

YouTubeは週に2枚、アナログレコードをデジタル化してアップします。
noteは月に1~2本エッセイを書きます(もっと間が空くこともあるけど)。

Instagramは日常のできごとを月数回くらいアップ。ストーリーも月数回。noteの更新時はストーリーにリンクを貼ります。

Xはアカウントがふたつあって、メインアカウントは読んだ本の簡単な感想と、自分が書いた論文や取材を受けた新聞記事、出演するテレビなどの案内。それに加えて、YouTubeとnoteを更新するたびにリンクを貼っています。

図の左下にポツンとあるXのサブアカウントは、さくら学院の応援専用でしたが、解散してしまったので、今はカギをかけてほぼ読むだけです(2か月に1回くらいつぶやいています)。

唯一オリジナルコンテンツがないのがFacebookで、YouTubeとnoteのリンクに加えて、Instagramの投稿が自動転送されていて、さらにXの内容を手動でコピペしています。

赤い点線で囲っているのが不特定多数に向けた発信。青い点線で囲っているのが知り合いに向けた発信です。Instagramのフォロワーは9割が教え子、Facebookのフォロワーは研究者仲間と昔の友だちです。

これってアカウント多いほうですか?それともこんなもの?

毎日更新してるわけじゃないから、このくらいならやっていけますが、気持ち的にはX、YouTube、note、Instagramと連載4本かかえてる感じです。ときどき面倒くさくなるけど、なんとか続いている。

情報発信の理由はそれぞれのアプリで異なります。Instagramは教え子に自分のひととなりを伝えるため。YouTubeはコマソンの面白さを広めるため。noteは思い付きレベルの持ちネタを育てるためと、文章の練習です。

Xの読んだ本の感想は、著者を励ますためです。多くの著者は頻繁にエゴサをするので、そこで大学の先生が「読みました。面白かったです」みたいなことを書いていたら絶対うれしいし、次の著作への意欲もわいてくるというものです。そのために書いています。面白くなかった本は、面白くなかったとは書かずに、感想文自体を載せません。

Xの書いたもの紹介は、単純に読んでほしいから載せています。読めないものや見られないものは載せません。Web掲載のない地方紙のインタビューとか、もうオンエアが終わってしまったテレビでのコメントとかは載せない。Webか紙か、無料か有料かを問わず、アクセス可能なものだけを選んでいます。

Xは投稿内容を厳密に決めていて、それ以外のことは基本的につぶやきません。意見表明とか、言論のようなことはしません。Xで言論を展開している研究者の方が何人もいますけど、よくあんな汚い場所でできるなと感心します。自分は潔癖なので、デマやパクリや敵意や悪意や政治的意図にまみれた、あんな下品な場所で言論はできない。心が持ちません。

あと、Xで学生とのやりとりを暴露する人がいます。こんな授業感想文があったとか、そういうのをネタにする先生がいるけど、あれも自分にはできない。学生とのやりとりは、できればさらしたくないです。本人の許可があってもあまり載せたくない。

フォロワーが何万もいる有名な先生なら、学生も取り上げてもらって嬉しいかもしれませんが、私のような弱小アカウントでは、先生が自分の承認欲求のためにさらしたとしか思えないでしょう。気になることがあればSNSに書くんじゃなくて、本人たちに伝えます。

Xでの情報発信はほんとに苦手なんですが、自分の活動を知ってもらうためにも必要だし、なによりメディアの先生をやっているので、日常的にXを使っていないと話にならないのもあって、続けています。

メディアを教える人間として、いろんなアプリを使い続けないと大学生のメディア環境が分からなくなってしまうのです。仕事の一環として、TikTokも毎日見ているし、アマプラも積極的に使っています。

それでも時間的・精神的な限界はあり、Netflixはいまだに加入していないし、ゲームはやらない、アニメやマンガは有名なものさえ見ない、ユーチューバーの良さがいまだに分からない、K-POPは聴かない、いろいろと分からなくなっているのは認めざるをえません。

現代のメディア文化について、分析方法などを教える「メディア文化の社会学」(旧称・文化研究入門)という授業を長年担当してきたのですが、今年度で店じまいすることになりました。理由はシンプルに、最近の若者文化を理解できている自信がなく、一方的に教授するかたちがもう成立しないとあきらめたからです。

今後、最近の若者文化はゼミだけで扱うことにして、学生とていねいに対話しながら、いろいろと教えてもらいながら、一緒に考えていきます。

一方、自身のYouTubeチャンネルを持っている学生はほとんどいないし、noteのようなブログを定期更新している人もあまりいません。情報発信という点では、私のほうが学生よりも詳しい部分がある。そこで気づいたことや考えたことは、さまざまな授業の中でしっかり伝えていきたいです。

YouTubeの一本の動画も、noteの一本のエッセイも、自分が何を伝えたいのかを徹底的に考えて、視聴者や読者のことを必死でイメージして、何度も手直ししながら、時間をかけて作っています。

YouTubeはアナログレコードの不快なノイズを波形レベルでひとつひとつ除去しているし(心地よいノイズはあえて残すこともあります)、noteは単語選びから読点の位置にいたるまで、何十回も試行錯誤を繰り返して完成させている。月並みな言い方をすれば、こだわりの品です。

一方で、XとInstagramはもっと気軽に、ちょこちょこっと作ってアップしています。考えすぎると逆に面白くなくなる。

軽いSNSの投稿と、重いコンテンツの制作のコントラストが自分の中にあって、どちらも楽しみなんです。両方ををバランスよく回していくのが、私の「趣味」なのかもしれません。

とびきりの持ちネタは、お金をもらって書く原稿のほうに回すので、noteはボツネタとか未成熟のネタばっかりですけど、そういうお金にならないネタをなんとか料理して、読める話に仕上げるのが、趣味としてちょうどよいレベルのチャレンジになっている。

たぶん、noteを一本書くのは、750ピースのジグソーパズルを完成させるくらいの労力です。マイペースで楽しませてもらっています。