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あとがき<『2021年度小山ゼミ卒業論文集VOL.6』掲載>

こんにちはこんばんは、花札師のこーへいです。


TwitterやInstagramではすでに報告いたしましたが、先日、無事大学を卒業いたしました。
自分にとってかけがえのない4年間でした。本当に今までで一番楽しかったし、学ぶ楽しさがわかったのもこの4年間だと思います。

花札師の考え方を生涯学習の視点から捉えるようになったのも、ここでの学びが大きいです。この卒業をもって、社会教育主事任用の単位取得もすることができました。



さて、私は卒業論文の編集をしておりました。その中で、最後に「あとがき」を書きまして。


花札師とは関係ないことは重々承知です。しかし、私がどんな想いで社会学を学んできたか、また、大学卒業をどのように捉えているか知っていただきたく、これを載せたいと思います。一人でも多くの人に読んでいただけると幸いです。

ちなみに、本文は「だ・である調」で書いてありますが、ご了承ください。




あとがき

 あなたがこれを読む頃には、無事大学を卒業できたことに、胸をなで下ろしていることだろう。一方で、今だからこそ、振り返ればやはり社会学は苦手だったと感じている者もいるかもしれない。社会学をなぜ、なんのために学んだのか、社会学的な考え方は総じて嫌いだ、等々。私はそれでもいいと思う。むしろ、その方が幸せなのではないかとさえ思う。言ってしまえば、同じ社会科学の法学や経済学と比較しても、社会学で今すぐ使える便利な知識は“何も”ない。しかも、社会学的想像力は「社会の常識を疑う」ところから始まるのだ。思うに、社会学が苦手だという人は、おそらくそれなりに、この社会を疑わなくても生きていけるという幸せ者なのかもしれない。

 

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 私は小さい頃から、大人の持つ常識に疑問を持つ機会が多々あった。その疑問は、神のベールのように隠されたもので、誰も私に分かるように説明してくれる人はいなかった。大学に入学し、社会学に出会った。ここでの学びは今までの疑問のほとんどを解消した。そして、同時に次なる疑問を生み出した。私は、自らが抱いた疑問に隠された神のベールを引き剥がしたい一心で、貪るように社会学を学んだ。特に、社会学理論という色眼鏡は、私の大学生活自体を学問の場として成立させた。

 常識に疑問を持つ変わった者としての立ち位置にいた私にとって、小山先生は不可思議な存在である。そして、小山ゼミは、とても不思議な体験の場であった。先生には私が今まで抱いてきた疑問に対し、一つ一つ(答えではなく)考え方を分かりやすく伝授していただいた。そして、先生はその対処までを全て見通していた。小山ゼミでは、自分のふとした考え、発言、社会学的想像力が、皆と対等に扱われ、評価された。そして、自分にも納得のいく批判をくれる学友たちと、さらに視野を広げてくれる小山先生とのコンビネーションにより、自らの思考がより社会学の形へと精製されていくのを体感することができた。私が、他ゼミへのお誘いを蹴ってまで小山ゼミを強く希望したのは、もちろん自身の社会学的想像力の精製が目的であった。しかし、いざ所属してみると、改めてその質の高さに驚き、それが自分の想像をはるかに超えるものであった。

 一方で、小山ゼミという空間は、社会学について熱く議論する場だけではなかった。特に、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が流行してからは、それが顕著となった。授業形態のほとんどがオンラインへと移行し、休み時間や空きコマに、学友とたわいもない話をする時間は明らかに減少した。もちろん、LINE通話やZoomを使用して声を聴くことはできるが、わざわざ互いに時間を作って話すかといえば、そうではなかった。そうした中で、私が大切にしていたのが、グループワークをしているときにメンバーと話す雑談であった。最近の調子、バイト、就職活動云々。この確認作業とそこに生まれる共感は、オンラインによって失われた人間らしい営みをもう一度思い出させた。オンラインでも授業をとり続けていた私が思うに、非対面でたわいもない話をできる空間はゼミだけだった。しばらくして対面授業を受けたとき、1年以上共に活動したにもかかわらず一度も直接会ったことがない学友の顔を見たときに、密かに感動を覚えたことを忘れることはないだろう。

 

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 こんなことを思いながら当論文集を編集していると、ふと、社会学の特徴や小山ゼミの特徴を読み取っている自分に気がつく。

 当論文集に掲載されている論文の、いわゆる「はじめに」に書かれる着眼点の多くは、どれも日常に近いという特徴がある。ジェンダー、世間、メディア、テクノロジー、コミュニケーションなどのテーマは、日常生活で見聞きするものばかりだ。しかし、社会学の知識と想像という色眼鏡のフィルターをかけることによって、その当たり前の世界は社会という概念に昇華する。これが社会学的想像力であり、小山ゼミの学生は、特にこの点に長けている。それぞれの論理展開や分析は、その結果や解釈だけに終わらなかった。それらを一般化することに努め、中には社会学の今後を示唆するものもあった。

 一方で、この「究める」のではなく「昇華させる」という社会学の特徴は、他学部生にはどうしても理解されない点である。無理もない。私でさえ、社会学的想像力の入り口に立てたのは、1年間社会学に触れた後、大学2年生に上がってからだ。社会学に批判的な人や理解できない人の多くが、常識を崩していくスタイル、一人ひとりの行為や一事象を社会全体として捉える手法、そして、自己の責任を回避する論調に嫌気をさすのである。

 今、改めて問う。社会学を学ぶとは何か。学部生が社会学を学ぶことに、どんな意味があるのか。繰り返すが、自らの利益のために今すぐ使える便利な知識は“何も”ない。これは、4年間貪るように社会学を学んだ上での私の感想である。ただ、この先の“社会”での場面を想像してみてほしい。街中でふと見かけた人が、周囲の人が、そしてあなたの大事な人が、この社会に苦しんでいるときに、あなたはどうする?どうしたい?それは、その人だけの問題、責任だと見捨てることはできる?それが、あなたにとってかけがえのない存在であればあるほど、あなたはそんなことができないし、共闘しようと心に決めるだろう。労働者たちと共に闘ったマルクスのように、黒人たちと共に闘ったデュボイスのように。

 だからこそ、そのときにはじめて役に立つのが、社会学である。一人ひとりの苦しみを一般化して昇華されていくのである。そして、その場面においてどう考え、どう闘っていくかを事前に議論しておくことが、学部生が社会学を学ぶことの意味である。以上が、私が当論文集を編集しながら、4年間の学びを鑑みて出した結論である。

 小山ゼミ第6期は、4年生の卒業をもって“解散”という形になる。しかし、それは目に見えなくなるだけで、決してその関係が終わることを意味していない。今後、あなた自身が社会への違和感を覚えたとき、あなたにとってかけがえのない人が社会に苦しめられていると感じたとき、そのときはもう一度声をかけてほしい。それは、小山先生でもいい、学友でもいい、院進する者にでも、社会人になる者でもいい。きっと、苦楽を共にした者同士、同じゼミで熱く議論を交わした者同士、そして、コロナ禍でも語り合えた者同士、力になれるから。一緒に闘えるから。

 

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 卒業論文集を製作・編集するにあたり、素晴らしい序文を記し、最後まで支えてくださった小山先生に、深く感謝申し上げる次第である。また、私を編集に誘ってくれて、かつ、ともに編集作業に携わってくれた末川と、煩雑な校閲を快く引き受けてくれた親愛なる学友には、一編集者として感謝の気持ちでいっぱいである。

 

 次は、“社会”というフィールドで、あなたに会える日を楽しみにしている。


編集 こーへい/花札師<髙野光平>


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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

「花札をして食っていく」

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