「がんばる」に関する一考察

とにかく頑張る。

人生最初の20年は、そんな思いを背負って生きていたと思う。

21歳になった頃、その思いに「ちょっと待った!」と思う出来事がわが身に生じた。脳腫瘍をきっかけに寝たきりになり、我が家(わが実家)にやってきた祖母が、母の懸命のリハビリに対して、こんな一言を放ったのである。

「『がんばれ』と『がまん』は嫌だ」

既に認知症も発症していたかもしれないが、大正の初期に生まれ、船乗りのもとに嫁ぎ、連れ合いの実家の事情により、代々続く農家の嫁、という立場に変わることを余儀なくされ、様々な辛抱という名の重荷を背負うことになった彼女が、心の奥底に持っていた「好きにさせて」という思いが、年を重ね、ある意味子供に戻った状態で表に出たのかもしれない。

辛抱し続けるだけが人生じゃない!孫の私にも、いつしかその思いが胸の片隅に宿るようになった。

しかし、当て字とはいいながら、「がんばる」には別の意味もあるんよ、と、数年前に教えてくれる方と出会うことができた。

その方は、今、私が住んでいる自治体の前の首長。

毎朝更新されているSNSは、「今日も一日がんばりましょう」と結ばれている。その「がんばり」が、いつの頃からか「顔晴り」と変換されるようになったのである。

「苦しい時こそ 笑顔」

学生時代に親しくしてくれた友人が、送ってくれた手紙の最後に、そんな一言を添えてくれた。

先の「顔晴り」は、そのときのことを思い出させてくれた。

どんなときでも、笑顔。言葉を変えれば、晴れやかな顔を絶やさない。

そんな存在で、わが身はありたい。

そう願いながら、日々を過ごしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?