第9球 コンバート

 皆さま、こんにちは。北海道レインディアの飯森 英祐(いいもり えいすけ)です。田ノ原(たのはら)さんのご指名で、今回のエッセイは僕が担当します。どうぞよろしくお願いします。
 田ノ原さんとはオフにトレーニング施設でばったり出会ったのがきっかけでお話するようになりました。田ノ原さんはチームの先発として一年間ローテを守られていてすごいなと思っています。エッセイに書かれていた、プロ野球選手になりたい人へメッセージはこれから書いていこうと思っている、投手・飯森に読ませたかったなと思いました。


 今回のエッセイテーマは『コンバート』です。
 僕は元々ピッチャーとしてプロ野球界に入りました。ですが、4年目のオフに外野手へコンバートになりました。そのことについて、お話したいと思います。

 僕はドラフト3位でに北海道レインディアに入団しました。最速150キロの触れ込みで、数年後のローテーション投手として期待、とはドラフト時の寸評でよく見たコメントです。
 僕自身も高校生のころは先発として長いイニングを投げてきていたので、まずはファームの先発ローテーションに入ることを目標にしていました。
 その目標通り、初年度はファームの試合に先発登板して4勝3敗と、高卒投手としてはまずまずの成績をおさめることができたと思います。

 トレーニングも高校時代とは比べものにならないくらい真面目に取り組んで、パワーがついたなと自分でわかるくらい体も大きくなりました。だからといって体が重く感じることもなく、むしろ今までへばっていたトレーニングにもついていけるようになり、それが嬉しくてさらにトレーニングを頑張ろうという気持ちになれました。

 ストレートの球速も上がりました。自己最速を2キロ更新。152キロに。変化球はスライダーとチェンジアップが投げられましたが、あの頃の僕はとにかく球速アップにこだわっていて、2年目はさらに球速をアップさせて打たれないストレートを武器に結果を残して、一軍で初先発するという目標を立てました。

 2年目も自己最速を2キロ更新して154キロに。7勝目をかけた試合に、一軍の投手コーチが見に来ていました。この日の投球次第では、もしかしたら一軍で投げられるかもしれないと僕はより気合いが入りました。6回まで投げて2安打3四球無失点。アピールはできていると思いました。球数的にも7回まで投げられれば自分でも今日はナイスピッチングだと言えると思いながらマウンドに上がりました。でも僕はその7イニング目を投げ切ることができませんでした。

 一死をとって、次の打者、ワンボールツーストライクの4球目でした。よし、決まった! と思った球をはじき返され、さらに、折れたバットが飛んできて、僕はとっさにグラブで頭のあたりを隠しました。次の瞬間、ものすごい衝撃が足元から襲ってきてました。そのあとのことを僕はよく覚えていないのですが、そばに転がったボールをつかんで何とか一塁に送球していたそうです。
 
 折れたバットはグラブに当たり、飛んできたボールは僕の左足の脛に直撃していました。あれだけのものが当たったのに、グラブのおかげか腕のほうは軽い打撲ですみました。でも、足のほうは骨挫傷という診断で完治するころにはシーズンも終わっていました。フェニックスリーグでも投げられず、秋季キャンプには参加しましたが、ブルペンで投げても、どこか、なにか、ケガをする前と違っていて、でもそれを払拭したくて、予定よりもブルペンで投げていました。

 投げ続けているのだから、違和感の正体はすぐにわかりました。ストレートの球速が明らかに落ちていたのです。その年のオフは落ちてしまった球速のことばかり気にしてしまっていました。それでもトレーニングをすればまた球速は戻ると信じて取り組みました。

 3年目はケガ明けということもありキャンプは二軍スタートでした。球速も150キロに届かず、いろいろな部分を映像で確認しましたが、154キロを投げたときとフォームも変わらずでしたし、腕も足も痛くなく、身体だって重くない。なのに147~149キロしか投げられなくなっていました。

 今なら、そこまで球速にこだわらずとも、ストレートのキレや変化球の精度をあげるべきだったとわかります。でも、あのときの僕はとにかく速い球が投げたかった。「速い」というのはそれだけで魅力があると、ぼくは「速さ」にとりつかれていました。

 この年も先発として投げていましたが、勝ってもすっきりしない日が続きました。原因はもちろん、150キロ以上を投げられていないからです。ナイスピッチと言われても、どうしても、154キロを出していたころのほうが球が走っているような気がして、どうしても納得できなったのです。
 それでも一軍の先発投手のケガで、ファームで先発している誰かが代役に、という話が出て、コーチは僕を推薦してくれようとしていました。

 今なら……本当にこの、今なら、ということが多いのですが、今なら、絶対に断ったりなんてしないのに、あのときの僕は、満足のいく直球が投げられないから、一軍ではまだ投げたくないって言ってしまったんですよね。本当に大馬鹿野郎です。

 その年は結局、6勝止まりで一軍で投げることなく終わりました。シーズンの終わり、コーチに言われた言葉がそれからずっと僕につきまといました。

「おまえは速い球が投げたいのか、野球がしたいのか、どっちなんだ」


 4年目もファームの先発として投げていました。
 相変わらず球速は最速で149キロ止まり。制球もままならず、野手の人たちは「打たせていいんだぞ、俺たちが捕るから」と言ってくださるのに、決めにいく球がことごとく外れて、うまくいきませんでした。
 それでも、ずっと、トレーニングだけはサボらずに続けていました。練習だけはしっかりやる、そうすればいつか、150キロ以上投げられる日が来ると、そう、このときになってもいまだに僕は速さにこだわり続けていました。

 そうしていつものように先発として投げていて、四者連続四球で押し出しになってしまったときでした。

「真面目にやってんのかよ」

 誰が言ったのかはわかりません。
 もしかしたら、僕の心の声だったのかもしれません。
 でも、確かに聞こえたその言葉に僕は初めて、そう、初めてマウンド上で頭が真っ白になりました。そのあとどうやって抑えたのかも覚えていなくて、試合後にシートを確認したらピッチャーゴロだったと知るくらいでした。ああ、ちゃんと捕って投げてたんだ……。
 ベンチに戻って交代告げられて、はい、と答えたような気がするけど、ずーっとぼんやりしていておぼろげなんです。でも、この日以降、僕が先発としては投げなくなったということだけは確かです。
 先発から外れて、1イニングしっかり投げきろうということになりました。なんとか投げきってベンチへ戻るのだけど、必ずと言っていいほど四球でランナーを出すし、ピシッと抑えることがほぼなくて、次第にただ投げているだけみたいになっているのがわかって、つらかったです。

 球が速いってなんなんだろう。

 ようやく僕は速さというものに疑問を持ちました。
 今マウンドに立って投げている投手は僕より球速はない。でも、変化球も織りまぜてバッターに的を絞らせていないから、すごく打ちづらそうだ。僕よりいいピッチングだと誰が見ても思うだろうし、僕でも思う。

 150キロ。152キロ。154キロ。
 どんどん自己最速を更新していってたあの頃。楽しかったのっていつまでだったかな。投げることが楽しかったのって、いつまでだったかな。
 ベンチでそんなことを思うようになっていました。

 8月の特に暑い日、ブルペンのベンチで待機していたら、野手のコーチがやってきてこう言ってきたんです。

「飯森、レフト入れるか」

 名前を呼ばれているのに、最初は誰に言っているのかわかりませでした。
「熱中症みたいになって、外野手が足りないんだと。飯森、どうだ」
 コーチは僕に選ばせてくれました。“入れ・やれるな”ではなく、“入れるか・どうだ”と、聞いてくれました。それに僕は「やります」と答えました。
 外野なんて、野手のバッティング練習でボール拾いがわりに飛んできたら捕るくらいのことしかしていなかったのに、僕は、外野用のグラブを借りてレフトに入りました。センターを守っている選手が「フォローするからあまり固くならずにな」と話しかけてくれました。

 最初の守備機会は入ってすぐでした。
 多分、外野手にとっては一番なんてことない、捕りやすいフライだったと思うんですが、僕にとってはすごい難しい打球を処理したような、がっちり捕球して内野に返球したあとのものすごい安堵感は今でもしっかり覚えています。
「ナイスキャッチ!」
 センターの選手がグラブをあげて僕にそう言ってきてくれました。
 ナイス、なんて言われたのいつぶりだろう。
 そう思っていたら、次の打球もその次の打球もなぜかレフトに飛んできて、そのすべてをしっかりアウトにできたんです。
 スリーアウトチェンジ。ブルペンからレフトに入ったから、野手のベンチに行ってもいいのか迷いましたが、ブルペンに戻るのもなんか変だったので、野手のベンチへ行くことにしました。

 ベンチではみんなが笑顔でハイタッチしてくれました。
 こんなにみんなから笑顔を向けてもらえたのっていつ以来だろう。いや、笑顔はあったのかもしれないけど、先発として投げていたとき、僕はまわりの人たちの顔をなるべく見ないようにしていたんだな、とそのとき気づきました。

 本来ならブルペンだったから、野手のみなさんが座るベンチにはなんとなく座りづらくて、端のほうに立って声を出していました。そうしたら、なんかだんだん声がかすれてきて、先輩に「なに泣いてんだよ」って言われて、初めて自分が泣いていることに気づいたんです。試合中に泣くなんてどうかしてる。でも、理由はわかっていました。

 楽しかったんです。レフトを守っているとき。野球してるなって思えて、すごく楽しかったんです。
 打球が飛んで来たらどうしようとドキドキしていたのに、楽しかった。楽しいと思えたことが嬉しくて、泣いてしまいました。


 その日が僕がコンバートするきっかけになった日であることは間違いないです。
 それから数試合、僕はレフトを守りました。ストレートの速さにばかりこだわってムキになっていたあの頃と、レフトを守るようになった僕は、何かから解放されたかのように身軽でした。

 そして、四球を出すと守っている野手の人たちがどう思うかもわかりました。1つでもアレなのに、何個も何個も出していた僕は本当に……申し訳なかったと痛感しました。

 そうして、その年のオフ、監督やコーチの方々と話し合い、投手・飯森英祐は外野手にコンバートすることが決まりました。

 僕は野球がしたい。

 あのとき、コーチに言われた言葉に、今ならそう自信をもって答えられます。
 投手として入団した僕を野手になっても契約し続けてくださった球団と、ご指導してくださったコーチ、監督、どんな時も僕の味方でいてくれた家族に、少しでも恩返しができるよう、外野手・飯森英祐としてできるかぎり長い間、プレーし続けたいと思います。

 投手に対して未練はあります。大ありです。だからこそ僕は外野手として悔いのない日々を過ごしていきたいと思っています。

 来季は外野手転向3年目です。今季は一軍の試合に20試合、出場することができました。でも今年は今年、来年は来年。また一からスタートだと思っているので、気合い入れていきます!


 ものすごーく長いエッセイになってしまいました。もっとサクッと書ければよかったんですが、僕の力ではこれが精いっぱいでした。
 ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。

 次回のエッセイもどうぞお楽しみに。
 北海道レインディアの飯森英祐でした。


◇飯森英祐プロフィール◇
北海道レインディアに投手として入団するも、4年目のオフに外野手へコンバート。
投手だったことを生かした強肩ぶりを何度も発揮し、外野で20試合の出場ながら6捕殺を記録。
野手転向3年目となる来季は一軍定着を狙う。

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