第15球 プロ野球選手の少年時代 投手編1

 皆さま、こんにちは。千葉ホワイトシャークスの投手・三岡 英(みおか すぐる)です。藤山(ふじやま)からの指名で今回のエッセイは僕が担当します。
 藤山とは同じリーグなので、何度か対戦したことがあるのですが、彼は本当に足が速いですよね。打ち取ったあたりでも内野安打になってしまったり、塁に出して盗塁まで決められてしまったり。今季一度だけ、牽制でアウトにできたことがありましたが、理想は塁に出さないことなので、来季は抑えたいですね。

 さて、今回から僕を含めて6人の選手が「プロ野球選手の少年時代」という共通テーマで書いていきます。
 プロ野球選手は子供のころ、どんな野球少年だったのか。気になる方も多いと思います。今回はその投手編です。それではいきます。

 僕は小学校に上がる前から父親とキャッチボールをしていたという記憶があります。父は昔からプロ野球が大好きで、夜は野球の中継をよく見ていたことも覚えています。
 僕は父のことが大好きだったので、キャッチボールをしているときの父がいつも笑顔で、上手に投げられたり、うまくキャッチできたりすると、めちゃくちゃほめてくれて、それがすごく嬉しかったんですよね。なので、自然と野球というスポーツに入っていくことができました。
 とはいっても、最初からバリバリに野球少年だったわけではなく、ただただ楽しくて野球をやっているという感じでした。でも今思うと、その気持ちが一番大切だったんだと実感しています。楽しいって尊いことです。
 キャッチボールをずっとしていたので、だんだんただ投げるだけでなく、テレビで見たプロ野球選手の誰かの投げ方をまねしたり、自分でカッコつけて投げてみたり、ここでも自然と自分は投げる人になるんだという気持ちになっていきましたね。おかげで今でもバッティングはとても苦手です。打つこと自体は好きなんですけど、なぜか飛ばないんですよね……。なのでDH制のあるパリーグでよかったなと思っています(苦笑)。

 父が球の速いピッチャーより、コントロールのいいピッチャーが好きだったこともあり、野球中継のときにそういう選手のピッチングについて事細かに説明されたこともいい思い出です。その当時はどこまで理解していたか謎ですが、コントロールが大事、ということだけは今でも僕の中の一番のテーマになっています。
 なので、ボールを投げるときはいつも、このあたりに投げる、と決めてしっかりそこへ投げ込むという練習というか遊び? をよくやっていて、多分、それが今の三岡英というピッチャーの礎になっていると思います。
 基本投げたがりだったので(今思うともう少しセーブしてたほうが良かったかも)、ずーっと投げているうちに、球速もそこそこ出るようになり、でもあくまでそこそこだったので、チームのエースみたいな立ち位置になることはなかったです。でも、「誰か投げられるやついるかー」となったらいつでもいける、というのが僕、みたいな感じになっていってたので、いつも投げたい僕としては嬉しかったですね。

 僕は中学校まで軟式でした。父は心のどこかでは息子がプロ野球選手なってくれたら、と思っていたかもしれませんが、それよりも、ずっと野球が好きで、ずっと一緒にキャッチボールができるような関係でいたいと考えてくれていたようです。だから、野球に関して強要されたことは何一つありません。むしろ、「腕とか肩とか痛くなったらすぐ言え、ぜったい無理はするなよ」と言ってくれていて、だから僕は今でも野球を続けられているのだと思います。

 高校に入り、僕は自分から硬式を選びました。僕の中で少しずつプロ野球選手が将来の夢とちらつき始めたからです。父と一緒に、ずっと見てきていたのですから、当然といえば当然かもしれません。テレビの向こうの人たちはとてつもない球を投げている。それでも、僕もいつかああいうところで投げられたら……と、夢見るようになっていました。
 ある日、僕は父に話しました。「プロ野球選手になりたい」と。父がどういう反応をするか、喜んでくれるのか、難しい顔をするのか、できれば喜んでほしいなというのが僕の中にはありました。
 父はそのどちらでもなく、まっすぐに僕を見据えてきて「本気か」と聞いてきました。「本気だよ」僕はすぐに答えました。そうしたら父がほんのり微笑んで小さくうなずいたんです。
「迷わなかったな」父の表情に僕は安堵していました。
「父さんもできる限りのことはする。だから、これだけは約束してくれ。野球以外のこともしっかりやるんだぞ」
 野球以外のこともしっかりやる。真っ先に浮かんだのが勉強のことでちょっとひるみましたが、父が、「できる限りのことはする」といってくれたのがすごく嬉しくて、勉強もやってやるぞという気持ちになりました。まぁ、だからといって、いきなり頭が良くなったりはしませんでしたけどね。赤点はとらなかったのでいいかな(苦笑)。

 父は仕事の合間をぬって、僕の練習につき合ってくれたり、車で送り迎えをしてくれました。母はおいしいご飯を毎日作ってくれて、今も大きなけがなく元気に野球をしていられるのは、両親の存在なくしては語れないです。

 僕は高校3年間で一度も甲子園に行くことはできませんでした。3年生のとき、地区大会で準々決勝までいったのがチームとしての最高成績でした。悔しくなかったと言えば嘘になりますが、3年間野球をし続けられたことが嬉しかった、という気持ちのほうが大きかったんです。僕は野球が好きなんだと改めて思いました。

 僕はその後、大学4年時に千葉ホワイトシャークスからドラフト会議で4位指名をいただき、プロ野球選手になることができました。
 実は高校生の時にもプロ志望届は出したのですが、指名されず、声をかけてくださった大学に進学しました。あのとき野球以外のことも……と、父に言われて、勉強もそこそこ頑張っていて良かったなと思いました。

 野球をしていると、つらかったり悔しかったり苦しいときというのは必ずあると思います。僕もありました。でも、それはたぶん、みんな一緒なんです。だから、明日は今日、大変だったことが楽しく思えるかもしれない、と考えてさっさと寝るようにしていました。ある意味のストレス発散法? でも、僕にはそれが良かったようで、だいたい朝目覚めるとスッキリしていたんですよね。

 三岡英というプロ野球選手が少年時代はどうだったのか、書いてみましたが、いかがでしたでしょうか。参考になると良いのですが……。

 それでは、次回のエッセイもお楽しみに。
 千葉ホワイトシャークスの三岡英でした。


◇三岡英プロフィール◇
千葉ホワイトシャークスの中継ぎ左腕として今季60試合に登板。防御率1.99、35ホールドポイントとキャリアハイの成績を残した。来季も貴重な中継ぎ左腕として、フル回転を誓う。

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