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【短編小説】桜に祈りを

 小さな丘の上で桜が咲いている。

 私はその近くの会社で働いていて、開けた窓から時おり花びらが舞い込んでくる。ふわりと、春の香りを漂わせて。

 このところ毎日のように桜の歌をテレビやラジオ、会社で流している有線放送で耳にする。桜の曲は好きだ。

(あ……)

 ティッシュで鼻をかむ。不意にゆるんだ涙腺をごまかすために。そうなる理由はわかっている。あの日の記憶がよみがえるからだ。

 私がまだ小学生だった春の日のことを――。

 晴れてるからいいよね、と私は学校帰りに桜の木の下で本を読んでいた。お母さんもお父さんも帰りが少し遅くなると知っていたから、まっすぐ家に帰らず寄り道をしたのだ。

 そうしていつのまにかうとうと居眠りをしてしまっていた。私を起こしたのは吹いてきた風に舞った花びらだった。それが私の鼻にくっついてくしゃみがでた。慌てて立ち上がったけど、まだ暗くはなっていなかったのでホッとしてまた座った。

 あともう少しだったから私はここで読みきって家に帰ることにした。私と同じ、桜の木の下で本を読んでいる男の子の話を。

 強い風が吹いて……というところを読んだとき、本当に強い風が吹いてきて私は顔を上げた。

 風の音だけじゃない。

 違う音が混ざっていることに気づいた私は背筋が伸びた。少しだけ横を向いたら人影が視界の隅に見えた。

 え、桜の木の下から誰かが……いやいや、そんなことは……でも、本か何かに書いてあったような……えーと……お、おちつけ、私! いざとなったら走って逃げればいいんだから。この丘は私の庭。どの方角からでも家に帰れる自信はある。

 私は木の幹にぴたっと身体をくっつけながら恐る恐る反対側をのぞき見た。
 淡い色の着物を着た人が桜に向かって祈るような仕草をして立っていた。
 息をのむ美しさ、というのを私はあのとき知ったと思う。
 そして、人は声を上げずに泣けるのだということもあのとき初めて知った。

 あの人はきっとここにいる私にまだ気づいていない。私はランドセルについている鈴が鳴らないようにぎゅっと握りしめた。なんとなく、気づかせてはいけないような気がしたのだ。あの人の祈りはあの人だけのもので、私が邪魔をしてはいけないんだ。

 でも、心臓はずっとドキドキしていた。私にとって桜は見ていて「きれいだなー」「すてきだなー」「ここでお団子食べたいなー」って思う、楽しい場所だったから。なのに、あの人にとっては泣いてしまうくらい悲しいところなのだと、小学生の私には衝撃だった。本当に悲しかったのかどうかはわからないけれど。

 結局、私がその人を桜の下で見たのはあの日だけだった。けれど、大人になった今でも鮮明に覚えている。あの人の佇まいと涙を。

「ああ、この歌染みるわ~」

 課長がハンカチを目じりにあてながら声を震わせている。と、いきなりのくしゃみ連発に私は思わず笑ってしまった。

「課長。デスクのそばにティッシュくらい置いといて下さいよ」

 私はストックしてある鼻セレブのティッシュボックスを課長に渡す。

 有線から聞こえてくる歌は、私が小学生のころ大ヒットした桜の曲だ。

 あの人もどこかで聴いていたらいいな。聴きながら穏やかに微笑んでいてくれたらいいのに。

「あ、花びら」

 ふわり、と。
 今年も春がやって来たのだ。

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