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「老害」について思う事

まだ7月になったばかりなのにこの暑さ……。
この記事が投稿される頃には少しは涼しくなっているといいなぁと思いつつ、今日も今日とてただの戯言を垂れ流してみます。

将来自分に対してのブーメラン記事になってしまいそうですが、今日は「老害」について、現時点での私の考えを少し書いてみます。また、少し強いタイトルですが、あくまで現時点での私の考えなので悪しからず。1年後や10年、20年後はまた変わっているかもしれません。

世界は賢いという記事を書いたばかりですが、その社会を構成している人間も賢い生き物です。
多くの場合、私たちは自分が持っている知識や経験を活かして、適切な(少なくとも自分は適切だと思う)判断を下します。その一つの例が、質問する相手の選び方です。
質問をするとき、私たちは通常、親しい人やその分野に詳しい人を選んで話しかけます。この選択は無意識のうちに行われていることが多いですが、これは私たちが自分の周囲の人々の能力を評価し、信頼できる情報を得ようとしている証拠です。
親しい人=価値観の似ている人であることが多いので共感や後押しをしてくれる場合が多いですし、その分野に詳しい人は本当に質問すべき相手ですね。

ところで、少し話は変わり、年をとり、能力が低下していくと、社会の中での役割が徐々に薄れていきます。その最も明確な例が定年や引退です。
定年を迎えると、多くの人が現役を退き、社会の主要な構成員ではなくなります。もちろん例外はありますが、人間、年齢とともに筋肉や認知機能は低下していきます。

ある調査によると、50歳あたりから徐々に認知機能は低下するといわれています。認知機能の中でも、特に物事を行う「遂行力」と「判断力」、「記憶力」は早期に低下し始め、「言語力」は70歳ころまで比較的機能が保たれるとしています。
https://www.sakaimed.co.jp/knowledge/elderly-people-rehabilitation/rehabilitation/reha10/#:~:text=ある調査によると、50,たれるとしています。

2)加齢と認知機能
 脳は20歳台をピークにだんだん委縮していきます。50歳あたりから徐々に認知機能が低下すると言われています。
60歳台で委縮が顕著(5~10%減)になり、80歳台で10~20%も委縮します。委縮は神経細胞数の減少が原因と考えられます。そうなると、脳での情報処理能力が低下するとともに、記憶が呼び出せない「物忘れ」が多くなります。これが認知症の始まりです。ひどくなると、料理を食べたことなどエピソードを忘れる記憶障害、簡単な計算ができなくなる計算力障害、被害妄想など情緒が不安定になる感情障害、徘徊など意味不明の行動を起こす異常行動など、典型的な認知症の症状が顕著になってきます。

http://www2.htc.nagoya-u.ac.jp/~ishida/Personal/Investigation/cognition.html#:~:text=2)加齢と認知,すると言われています。&text=簡単な計算ができ,顕著になってきます。

良い悪い・こうありたいという願望や、反対の論文等もありそうですが、こういった傾向があるのは私の肌感覚では正しいと思っています。

このことが事実であっても無くても、サラリーマンの定年退職と言うものは事実として存在します。
定年退職をすると、少なくとも社会人として社会を構成する要素にはなれません。徐々に社会から離れていくような実感が生まれるのかと思います。

私自身の定年退職はまだ先なので想像するしかありません。一番近いのが予備校に通う浪人時代かと思います。あの肩書が何もなく、ただの無職、当時は「自分は受験をするために頑張っているんだ」という支えみたいなものがありましたが、同級生たちが大学へ進学したり就職したりしているのを見ると、本当に大きな壁のようなものを感じました。あの頃が人生で一番つらかったです。

もしあの時のような環境なのだとしたら、定年退職した方の多くの人が「社会のために何かをしよう」と焦り始めるのも理解が出来ます。
彼らは「自分は年齢を重ねたのだから、何かできるはずだ」と考えます。しかし、年齢を重ねたことと、何かを成し遂げる能力は必ずしも一致しません。

ここで一度立ち止まり、自分が他人に質問されたことがあるかどうかを考えてみるのがいいのかなとも思います。
質問されるということは、その分野においてあなたがそれなりに詳しいと評価されている証拠です。しかし、もしあなたが一度も質問されたことがないなら、その分野でのあなたの能力は他人から見て頼りにされていない可能性が高いです。

たとえば、ある会社員が定年を迎えたとします。その人は一度も部下や同僚からアドバイスを求められたことがないとしたら、その人がその分野で特別な能力を持っていたり、教えるに値する技能・知識を持っていたりするとは言い難いでしょう。
それにもかかわらず、「自分は年を重ねたから、何か貢献できるはずだ」と考え、無理に社会に関与しようとする行為、例えば後輩への指導は、多くの場合逆効果になります。
教えられる側も「聞いてもないことをいきなり教えられ」、しかも「別に今まで聞きたいと思っていない人」に言われても聞く耳を持たないでしょう。
これは「老害」の一例かとおもいます。

「老害」とは、年齢を理由に「自分は教える立場にある」と考え、無理に他人に教えようとすることを指すのかなと思っています。
基本的には、新人教育係といった「教育する立場」や「管理職」を除き、先輩が後輩に対して何かを教えるべきではないとすら思います。管理職は管理することが仕事であり、教えることも仕事の一部です。新人教育といった仕事を任された人も同様で、これは役割・仕事の一環として行われるべきものです。

後輩や新人もバカではありません。自分が後輩だったころ、「聞きに行く価値がある」と判断した先輩には自ら進んで質問をしていたはずです。そして、逆に「聞く価値がない」と思った先輩には質問しなかった経験もあるでしょう。このような判断は、後輩たち自身が行っているものであり、聞かれない人が無理に教えようとすることは、かえって全員が不幸になるだけだと考えます。
教えた側は「なんで俺のいう事を聞かないんだ」
教えられた側は「聞いてもないのにいきなりなんだこの人」といった具合ですね。

「誰かのために何かをする」のは素敵ですが、「自分のために何かを押し付ける」のは避けたいところです。
老害にならないためには、自分が本当に他人に教える立場にあるかを冷静に見極めることが重要なのかなと思います。
年齢や経験だけに頼るのではなく、他人から必要とされているかどうかを判断し、それに基づいて行動するか、求められてないのであれば行動しないというのも選択肢の一つになるかと思います。
聞かれたことは進んで協力するべきですし、求められたことは積極的に行うべきでしょう。
ただ、「あなたのためを思って」と聞かれても、頼まれても、求められてもないのに、個別に行い始めると、その人にとっての「老害」になってしまうのかなと思います。

自戒を込めて少し文章にしてみました。

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