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多様性=少数派のためにみんなでもっとつらい思いをしようという話

「多様性」という言葉を勘違いしている人がいるようです。
「多様性」=みんなが幸せになる世界……でしょうか?

そんなことは無いと思っています。
「多様性」は=「世の中の苦しみを増やそう」という側面が確実にあります。

今までマイノリティーとして押さえつけられていた人たちが声を上げて、社会が変わっていくこと自体は良いも悪いもないと思っています。
ただ、結果として生まれるのは「みんなが幸せ」ではなく、「我慢する人が増える」です。

例えば喫煙文化。

私は煙草を吸わないのでありがたい限りですが、愛煙家の方は現在は肩身の狭い思いをしていることでしょう。
昔は食事処でも煙草を吸っていたと聞きます。
そして、1995年ごろの男性の喫煙率は55%、このアンケートが20歳以上の人を対象に行われていたのだとしたらオフィスにいる人の多くが煙草を吸っていたのだと思います。
https://ganjoho.jp/public/pre_scr/cause_prevention/smoking/tobacco03.html

そして、禁煙ブームです。
煙草を吸わない人にとってはうれしいですが、煙草を吸っている人はつらい思いを現在進行形でしているのだと思います。

同じようなことがいたるところで起きています。
マイノリティが10%以下のことを指すとしたら、90%の人は現状で満足しているということです。
そして、「多様性」は10%の人のために90%に人に我慢してもらおうという側面があると思っています。

10%の人も90%の人も全員幸せといったことが起きるのは政治家のマニュフェストの中か、本当に脳内が幸せな方だけでしょう。
そもそもみんな、とは言わないでもある一定の人が幸せになるようなことはとっくに行われています。阻害する要因がないですからね。そこには需要もありますし仕事になります。

それすらにも満たない人のために何かをする場合、多くの人が「変わる」必要があります。
たとえばオフィスで体のにおいがすごい人がいたとしても、それが「多様性」なら受け入れる必要があります。
それ以外の人の職場環境が悪くなったとしても。

「体のにおいくらいお風呂に入ればいいじゃん」という人もいるかもしれないですが、ではこの「○○すればいいじゃん」のさじ加減はどうするんですか?
彼・彼女にとってはそのことがとても大切なことだったら?精神的に難しいことだったら?
では「体のにおい」と「同性愛」はどっちが重要でしょうか。同性愛の人に「異性を愛せばいいじゃん」というのと「体のにおい」がすごい人に「体を洗えばいいじゃん」の差は何ですか?

そして、集団で過ごす=少なからずみな我慢しあうことが必要だという価値観を持っている私は、これを言い出したら集団として生活できないと思っていたりします。
元々一人では生活できないから集団というものと作ったんだと思っています。一人じゃ狩りもできないですからね。

現代社会は「衣食住」に関して集団でいる必然性が薄れてきています。
自治体もいらなくなっていますし、コンビニもスーパーもあり、洗濯機もありなんでもあるので、「一人暮らし」も成立するようになっています。
こういった「多様性」みたいなものが声高々に叫ばれているような面もあると思っているのですが、「多様性」の行きつく先は「個」だと思っています。
皆が好き勝手「自己」を主張しあったら一緒に生活とか難しくないですか?
そんなに皆さん「個」になりたいんですかね?

そんなことを思う今日この頃です。

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