統計・一般論・フェミニズム──フェミとの対話可能性について

 男性作家の全集を読んでいると、小説や批評に混じってちょっとした男女論や女性論が載っていることがある。意外と素朴な女性観が綴られていたり、めっぽう切れ味が鋭かったりとさまざまだ。作家が書いた女性論の有名なもので、三島由紀夫の『女ぎらいの弁』がある。一部引用しつつ論を展開していこうと思う。

 大体私は女ぎらいというよりも、古い頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思っているにすぎない。
 女性は劣等であり、私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。事実また私は女性を怖れているが、男でも私がもっとも怖れるのは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど怖いものはない。
 また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、教育を全くうけていない聡明な人も沢山いるから、何も私は学歴を問題にしているのではない。
 こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な女性に会ったことがない不幸な男である、という風に曲解して、私に同情を寄せてくる女性がきっと現れる。こればかりは断言してもいい。しかしそういう女性が、つまり一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。(太字強調筆者)

 なんともひどい暴言で笑ってしまうが、ここで三島が言うように、女性一般が劣等などと思っている男は今どきあまりいないと思うし、私ももちろん思っていない。しかし、太字強調した部分に関して首を縦に振りたくなる男は、わりといるのではないかと思う。

 「一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女」といわれて、個人的に真っ先に思い浮かべるのが、私もたびたび批判してきたTwitter上のフェミニストのような人々だ。

 彼女たちの反論に特徴的だが、統計や客観的事実に基づく一般論に対して、「私の周囲では」といったミクロな例外を持ち出すことは日常茶飯事だ。自分の見聞きした狭い範囲がこの世のすべてだといった態度には閉口させられる。

 彼女たちの多くが、一般論・統計・傾向といったものにまとめられるのを嫌う。既存の枠組みに押し込めて判断しようとすることへの拒絶感自体は否定しないが、自分たちの主観こそ真実だと絶対視するような弊害も孕んでいる。

 「傾向としてある」という話に対して、自分自身が言われているかのように反応し、自分または周囲の人間がそうではないことを根拠に、女性一般に多く見られる傾向自体を否定する。さらに、一般論に対する個別的例外でしかない自分や周囲を、逆に一般化しようとする場合すらあるのだ。

 自分が一般論に含まれない存在であると主張するのと、世にある一般論自体を否定するのとでは意味が違う。ましてや、自分たちの意見こそ世の女性の総意であると主張するにまで至ると、どこの並行宇宙からやってきたんですか? と問いたくなってくる。勝手に全女性の代弁者になって奇声をあげたフェミニストに、一般女性からツッコミが入っているのも珍しくはない。

 しかし、そうした勝手な代弁者気取りもある意味自然な行為であって、彼女たちにしてみれば、自分たちの考えと対立する一般論が存在する方がおかしく、それ自体が葬り去るべき「呪い」なのである

 フェミニストの世界観では誰もが「呪い」にかかっていて、そこから解放されることが女性のエンパワメントにとって大事なのだと信じている。しかし、例えば「女性の価値は若さ」という「呪い」があったとして、それに潰されるか、飼い慣らすか、中和するか、利用するかは人それぞれだ。

 一言で女性といっても、立場によって「呪い」との距離感はさまざまだ。しかし、完全にバラバラというわけではなく、最大公約数的な重なりがある。そこから導きだされるのが「必ずしも若さが全てではないが重要な価値の一つである」といった「一般論」だったりするわけだ。こうした「一般論」には、今では婚活での成婚率のような統計的裏付けもある。

 このような「一般論」に対し、「いや私の知り合いのアラフォー女性すごい綺麗だしモテるし」とか、「私は年取ってすごく生きやすくなったから若い頃になんか戻りたくない」みたいな反論をするのがフェミニストだ。

 それはそれで事実なのだろうが、まさに三島の言う「一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女」の姿だといえる。

 自分にとって居心地の悪い「一般論」の存在自体を否定するフェミニストは、一旦現実を受けとめることすらしない愚かで不誠実な人々に映る。しかし、一般論を押し付け、統計的数字や傾向としてまとめるような、一人ひとりが異なる人間だと認識しない扱いこそ抵抗すべき敵だと考えている彼女たちからすると、統計によって都合の悪い傾向を示された際にとる最適解は、「あ"ー! あ"ー! 聞こえない!」と耳をふさぎ、手法自体を否定することなのだ。

 独自のデータを集めて日本女性を分析するすももさんがフェミニストに猛烈なバッシングを受けるのにはこうした理由がある。叩き甲斐のある反応や、ツッコミどころを残した分析結果以前に、そもそも女性をそのような「群」として扱う姿勢に拒否反応を示している部分が多々あり、そこには根源的な相容れなさが存在する。

 すももさんの統計に対抗して、統計的根拠に基づいた反論をおこなう在野フェミニストが現れないのは、都合の悪いデータが出たら困るとか以前に、そうした闘いかた自体フェミニストの「生理」に反するもので、支持されないものだからだ。

 極端に好意的な見方をすると、MeTooに象徴されるように、個人の体験を「わたしたちの体験」として共感で繋ぎ、人が寄り添うことで生じる「体温」を拠り所にするのが(少なくとも現状目立っているタイプの)フェミニストだ。例えるなら、スズメバチの襲撃にミツバチが蜂球で囲み、熱で蒸し殺して対抗するようなものだが、そうした人々にとって、統計は「体温」がなく、冷たく感じるのだろう。

 統計を元にした「冷たい」分析は、統治する側の視点とも重なるものだ。Twitterのフェミニストがほぼ例外なく自民党政権に批判的で、立民や共産党、れいわを支持しているのは実に自然であり、逆にアンチフェミニストに温度差こそあれ現政権支持者が少なくないのは、こうした「生理」の面から見ても自然といえる。

 ただ、フェミニストの政治的同質性に比べると、アンチフェミの方が、ネトウヨから左派リベラル寄りまで多様性があるように見える。

 

 「女性にそうした傾向がある」という前提を認めるのは、自分自身がその「傾向」を支持するのとイコールではないはずだが、それを認めること=敗北だと思ってしまうのがフェミニストである。前提を共有できない人々とは議論のスタートラインにも立てないので、当然ゴールに到達するはずもなく、不毛な空中戦が永遠に続く。

 フェミニストと建設的対話をするなら前提の共有が必須だが、アンチフェミが前提としたい女性に関する「一般論」や、本能に基づいた「傾向」について、フェミニストが認めることはまずないだろう。先述したように、フェミニストにとって現状存在している「一般論」など、葬り去るべき「呪い」でしかなく、都合の悪い傾向に加担する女性は、女性ではなく「名誉男性」だからだ。そうやって切り捨てて先鋭化していくのが現在のフェミニストなのである。

 前提を共有するためのすり合わせが期待できない以上、フェミニストとの建設的対話など不可能だ。ハフポストの対談で、ひろゆきがああいった形で炎上したのが象徴的である。議論の前提を提示する権利はフェミニストの側にだけあり、それに基づいた議論しかありえないと彼女たちは本気で思っている。そこで男性に求められているのは、対話ではなく共感、譲歩、協力、そして謝罪だろう。そうした「戦果」を挙げないかぎり、対話に応じたフェミニストもまた叩かれるのだ。フェミニストとの対話は不可能。現時点での私の結論はこれである。

 

 以下では三島以外の作家も引用しつついろいろと。けっこう力入れて書いた。

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