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深爪から始まる


いたっ。

という短い悲鳴が彼女から上がった。

何かと思って駆け寄ると、彼女が渋い顔をして僕を見上げた。


またやっちゃった……


そう言って右手の親指を僕に向ける。

彼女の座っているソファの左側に爪切りが落ちているのを視界の端に認め、僕はいつものあれかと合点した。


血は出てないかい?

うん……今回は大丈夫

とりあえずワセリン持って来るよ

ありがと


彼女は小さな声でお礼を言うと自身の親指を見つめる。

彼女が深爪をするのはいつものことだった。

いつものこと、というより彼女が自分で爪を切ると必ず深爪になってしまう。

そこまで深く爪を切らなければいい話なのだが、彼女はそれができないらしい。

思えば、彼女の爪はいつも短い。

前に理由を聞いたのだが、爪と皮膚の間にゴミが入るのが嫌だと言っていた気がする。

他にも何か言っていた気もするが忘れてしまった。

とにかく彼女は爪を切る度にどこかしらの指を深爪にしている。

彼女自身は深爪にする気は全くないのだけど。

とりあえず今回は血が出なかったようなので、まだマシな深爪だと言えるだろう。

薬箱からワセリンを取り出し、ついでにハンドクリームも持って彼女のもとへ戻る。

彼女の左側にあった爪切りはテーブルの上に移動していた。


……持ってきたけど、ワセリンでよかった?


ハンドクリームとワセリンを彼女の目の前に差し出す。

彼女は少し迷ってから両方手に取った。


ありがと……とりあえずワセリン塗るね


ワセリンを大雑把に塗りたくると彼女はワセリンだけを僕につき返す。


ハンドクリームは深爪が治るまで持っておくね

……わかった


僕はワセリンを受け取り、薬箱に戻しに行く。


短い道中で思う。

彼女がハンドクリームを手放さない日は来るのだろうか、と。

そもそもいつもどこかしらの指に深爪を負っている時点で、彼女はハンドクリームを手放せないのではないだろうか。

薬箱にはもうハンドクリームはない。

明日くらいに買い足しておこうと頭の隅で考え、チューブ式のものではないハンドクリームにしようと決心した。

以前彼女には反対されたが、結局のところいつも深爪しているのだからチューブ式のものでない方が合理的ではないか。

多分、購入したハンドクリームを見たら彼女は怒るんだろうなと予想しながらワセリンを元の場所に戻した。

振り返るとソファに座って後ろ頭しか見えない彼女が見えた。

明日は喧嘩することになるかもな、と悠長に考えながら僕は彼女のもとに戻った。







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