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さかなの夢

小さい頃、ある童話を読んだ。

小熊秀雄という作家の『焼かれた魚』という話だ。

内容は確か、食卓に上がっているこんがりと焼かれた魚が海へ帰りたいと泣いていて最終的には海へ帰れた話だったと思う。

小さい頃の僕は、この話が好きではなかった。

意味がわからなかったから好きではなかったのと、その話のせいか暫く魚が食べられなくなった、食べたくなくなった時期があるからだった。

子供心に、なんとなく目の前に用意された焼かれた魚が海へ帰りたいと思っているのではないかという怖さがあったからだ。

それに、あの話の最後があまり幸せとは思えなかったのも、好きではなかった理由に入るのかもしれない。

大人になって、その童話を思い出した時、ふらりと寄った古本屋で僕はその絵本を見つけた。

痩せた犬と骨になった魚が表紙になっていて、英語訳がついているものだ。

なんとなく、もう一度読んでみようと思って僕はその絵本を購入した。

家に帰り、もろもろの生活習慣を済ませ、就寝前にちょっと姿勢を正してその絵本を読んだのが間違いだった。

僕はやはり、この話は大人になった今も好きにはなれなかった。

好き嫌いでいうと恐らく嫌いに分類されるのだろうが、それよりも、ただただ虚しさが、読み終わった心の中にずっと居座り続けている。

焼かれた魚に対するあの仕打ちはなんなのだろう、魚が何かしたとでもいうのか、なぜあんな仕打ちをされ、あのような終わり方にしたのだろう、それを考えれば考えるほど虚しさが広がっていく気がした。

そしてあり得ないことではあるが、あの終わり方が人間の人生にも適応されるのであれば、人生とはなんと残酷なものなのか、体は朽ちてなくなるというのに意識だけはずっと存在するということではないかと思うと広がっていた虚しさは今、絶望感に変わってしまった。

ただ僕とあの焼かれた魚との違いは、ハッキリしていた。

それは、僕の人生はまだまだ続くものだとしても僕はあの焼かれた魚のように強く何かを求めることはないと確信していることだ。

何かを強く求めたものもそうではないものも終わり方は同じになるのであれば、それならば、海へ帰るということを強く求めた焼かれた魚の方が幸せなのではないか、と漠然とそう思った。


僕は考える。


波の音も聞こえなくなった深い砂の中で、あの焼かれた魚は何を思っているだろうか。

意識だけが存在し続けるというのであれば、あの焼かれた魚は、きっと海で自由に泳いでいるところを思い続けているのかもしれない。

思い続けているということは、強い願望であり、言い換えれば夢ということも出来なくはないだろう。

ならば焼かれた魚は砂に埋もれていてもずっと夢を見ているし、これからも見続けるということではないだろうか。

僕は、、

僕が夢を見ることはない。

焼かれた魚は、きっと僕よりも幸せ者で、夢を見続けている愚か者で、体は骨だけになっている亡者で、更に言うなら砂に埋まっている埋没者で、もう波の音だって聞こえないけれど、それでもやはり幸せ者なのだ。

夢を見る、見続けることはきっと幸せなことだ。

例え終わり方がどんなものであったとしても。

僕はこの話は好きにはなれないが、きっとまた焼かれた魚のことを思い出す日が来るだろう。

そんなことを考えながら、夢を見ない僕は眠りについた。

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