【妄想レビュー】フジコ・ヘミング 卒寿のゴルトベルク
トッパンホールでフジコ・ヘミングのピアノ・リサイタルを聴いてきた。
バッハ:ゴルトベルク変奏曲
現在90歳のフジコ・ヘミングが初めてバッハを披露する(それもゴルトベルク!)というので慌てて買ったチケット。予想通り、チケットは即日完売である。
全席20000円というのはさすがフジコという感じだが、バッハを聴けるのは最初で最後かもしれないと思い、清水の舞台から飛び降りるつもりで購入した(ちなみにヴァントの最後の来日公演と並ぶ私史上最高額のチケット)。
プログラムのインタビューを読むと「いつかバッハに挑戦したいと思っていた」のだそう。
「光子さんが録音しないのなら私が先に録音しようかしら」という録音への意欲を示す言葉もあった。
さて会場入りすると、正月でもないのに和服を着た女性がいたりして、明らかに他のクラシックコンサートと客層が違う。
多少居心地の悪さも感じながら、運良くゲットできた最前列センターに陣取る。
会場が暗くなり、ピアニストの登場を待ち構えたが、なかなか出てこない。
暗くなってから5分ほど経ったころ、ようやくフジコが出てきた。客席から万雷の拍手が起きた。
それを聞きながら、ひょっとしてフジコはバッハの前に「4分33秒」を聴かせたかったのではないかと推察した。
いつもは派手な色のゆったりしたドレスを着ているフジコだが、今日はシースルーの黒いシックなドレスである。内田光子を意識したのかもしれない。
冒頭のアリアがどのような響きで奏でられるかを期待していたら、唐突に「ラ・カンパネラ」が始まったので仰天した。
プログラムには書かれていなかったが、フジコといえば「ラ・カンパネラ」。言わなくても出てくるいつものお通しみたいなもの。フジコのリサイタルは初めてだったので、まったく知らなかった。
フジコは先日スロヴェニア室内管弦楽団と共演したモーツァルトのピアノ協奏曲第20番で、大方のピアニストが用いるベートーヴェンのカデンツァの代わりに「ラ・カンパネラ」を弾いて話題になった。
第1楽章と第3楽章の両方のカデンツァで弾いたものだから聴衆は大喜びだったらしい。
ちなみにアンコールも「ラ・カンパネラ」だったので、その日の聴衆は3回も聴けたのだ。
私なんかは未熟者だから同じ曲を聴かされると飽きてしまうのだが、クラシック通はコバケンのダニー・ボーイを10回も20回も聴いてはその違いについて論じ合っているらしい。私には到達できない世界である。
「ラ・カンパネラ」が終わるやいなや、聴衆の拍手を拒絶するがごとく、ゴルトベルクのアリアがすぐに始まった。
何ともロマンティックな歌い回しで、私が思い出したのはあのグールドも敬愛していたというロザリン・テューレックであった。
彼女が83歳でドイツ・グラモフォンに録音したゴルトベルクは91分を超える! CD2枚組である。
それなのにちっとも長さを感じさせないのは深々とした音楽の呼吸が心地よいからだろう。
第2変奏以降のフジコはときにタッチが濁り、力任せに弾くような場面も散見されたが、それは予想の範疇。90歳を迎えたベテランが大バッハと正面から格闘するさまは私の心を激しく揺さぶった。
沈鬱な第25変奏で、フジコは異常なまでのスローテンポを見せた。
そこから浮かび上がる人生の深淵はまるでブルックナーの交響曲第9番やベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番のような世界であり、この楽章を聴けただけでも今日足を運んだ甲斐があったと思った。
その後は躍動的な楽章が続くが、90歳のピアニストとは思えない一心不乱ぶりで、バッハの音楽の向こうに「ラ・カンパネラ」の響きが鳴っているような不思議な感覚がした。
最後のアリアが情念たっぷりに奏でられると、私は自身の半生を思い返し、涙が止まらなかった。
時間にして4分ほどだったかもしれないが、平均律全曲を聴いたかのような充足感があった。
弾き終えて、微動だにしないフジコ。聴衆も拍手を控え、固唾を飲んで彼女の様子を見守る。
やがて彼女がふぅーと大きな息を吐いて立ち上がり聴衆に笑顔を向けると、またもや万雷の拍手が会場に響きわたった。「フジコさーん、ありがとうー!」と叫ぶ女性もいた。
さすがにこのあとに「ラ・カンパネラ」はなかったが、ホールを出るときにすれ違った女性の二人連れは「今日はアンコールやらないのね」と不満げな様子だった。
いやはや、20000円というのは高い出費と思っていたが、あのヴァントのブルックナーにも劣らない深い感動を得た。
かつてNHKのドキュメンタリーがきっかけで国民的スターとなったフジコ・ヘミング。卒寿を迎え、自分のために奏でたようなゴルトベルクだった。
そこには一切の虚飾がなく、愛猫と戯れるがごとくバッハの音符を慈しむピアニストの姿があった。
【あとがき】
悪ノリが過ぎたかもしれません。フジコさん並びに関係者の方に深くお詫び申し上げます🙇♂️
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