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ほんものに変わる時(エッセイ)

昨日、断捨離をしていて、あるものを見つけた。

断捨離はもう何回もしているので、前回残すと判断したものを、時間を置いてもう一回判別しているような感じだが、大きいゴミ袋一つ分になった。

「捨てる」のビニールに入れられるものは衣料品が多い。どうしても残したい服なんて、そんなにない。例え失っても、また必要な時には手に入れられそうな気がする。

反対に、いつも悩んで捨てられないものは決まっていて、大抵は今はいない犬のもの。
服もおもちゃも、散歩用のカートも、時間をかけてずいぶん手放した。
一度、「捨てる」と決めて袋に入れたものを、翌朝また取り出したことも、何度もある。無理はしないと決めて、手放す時が来たら自然に手放す。そうやって少しずつ減ってきた。

今回見つけたそれも、数回に渡る私の断捨離から、毎回逃れてきたものの一つだった。



引き出しから出てきたのは、15年前、愛犬が闘病していた時に買った、ペンダントだった。
それを見ると、いつも切なくなってしまう。

16000円位しただろうか、お守りというよりは、詳しくは忘れてしまったけれど、科学的に病気が治癒に向かう何かが含まれている、というようなものだった。
私はあの頃、まさに藁にもすがる気持ちでこれを買ったのだった。

最初にかかっていた病院では、癌ということまでは診断されず、ただ、誰がどう見ても悪化していく様子に、私はもうだめかもしれないという思いと、奇跡が起きてよくなるかもしれないという思いを、両方抱えていた。



ペンダントを買ったことについて、今でも騙されたとは思っていないが、結果として愛犬は死んだのだから、効果はなかったのかもしれない。
でももしかしたら、命は数日延びたのかもしれないし、使うのが遅すぎたのかもしれない。

でも、本当はそんなことは、どっちでもいいのだ。


あの頃の私は、奇跡が起こる方の道を選びたくて、そこに懸けたのだと思う。
奇跡を信じる気持ちを支えてくれるもの。
ありえない奇跡を信じることを、肯定してくれるもの。
だって、その時愛犬はまだ、私の目の前で生きていたのだから。
私の心は、奇跡に懸けるの一択だった。


その後、その子が亡き後に迎えた犬の首輪にペンダントを付けていると、「それは何?」と聞かれることが時々あった。
答えると、「それ、絶対インチキだよ!!」と2人くらいから言われた。
真面目にやると泣きそうなので、「そうですよね~」なんてヘラヘラ答える。
色々言われるのも嫌なので、いつの間にか付けるのをやめた。

信じる信じないは自由として、私はそれをその場で、そんな風に口に出す人とは、友達になれないだろうな、と思う。
愛犬が死んだ今、そのペンダントについて言えることは、私がそれだけあの子に生きていてほしいと思ったということと、愛していたという事実、ただそれだけなのだった。



昨日、久しぶりにペンダントを付けてみた。
15年が過ぎて、そこにあるのは悲しみよりも、じんわりと温かい、変わらない愛情だけだった。

私はこのペンダントをこれからも「捨てる」の袋には入れないだろう。
むしろ、将来命を終える時が近づいたら、このペンダントにそばにいてほしいと思っている。
あの子のがんばりと、私の気持ちが込められたペンダント。
それは、私にとって本物なのだと、今ならちゃんと言える。

生きる為に、もう何もできることがなくなった時、私はもう一度このペンダントを頼るだろう。そして、今はまだ想像ができない最期の不安の中で、私はそれを付けてあの子を思い出し、ほんの少しだけ、安心するのだろう。

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