呪いのように学ぶこと。

勉強が好きだ。
本当に? と聞かれると、これが全く自信がないのだが。
けれど、いちおう「勉強が好き」で通している。

新しいことを学んで見識が広がったり、物事を見るための視点がひとつずつ増えていくのはとても楽しい。
大人になってからの勉強は、何かに追われてすることはほとんどなく、好きなことをマイペースで進められる、というのもいいところだ。

だけれど、私が勉強をしているのは、きっとそれだけが理由じゃなくて、きっと、呪いでもあるんだと思う。

学生の頃は、それはもう、ほんとうにもう、まったくと言っていいほど勉強をしなかった。
中学校に入ったところで燃え尽きたのか、はたまた目の前に広がる自由を前に、安易な遊びに飛びつくことしかできなかったのか。学びを投げ捨てて、小説を読むか遊ぶか、もしくは遊ぶか、はたまた遊ぶか、といった生活。

その結果自分の手に残ったものは、そう、学歴コンプレックス。
とんだお笑い草だが、両親は笑えないだろうなあ。ツルツルと滑り込んだ大学は文学部国文学科だし、いまは肩書きだけは声優だけど、ほぼほぼフリーターのようなものだし。
コンプレックスは大学を卒業してン年経った今でも、しつこい油汚れみたいに心に染みついているし、ときおり小火をおこしたりする。

小学生の時分は、ただ好きだからという理由で勉強をしていたように思う。
知識は世界を広げ、自信をもたせてくれた。
だから大人になった自分は、知識を「世界を広げて、自信をもたせてくれるもの」として、きっと見ている。
もはや私にとっての学びは、純粋に知を求めるものではなく、自我で濁り、立っているため惨めに縋るような、そんなグロテスクなものになっているだろう。

学び続けなければ、生きることを許されない。
それはまさしく呪いだ。

自らにかけた呪いは、時間をかけ、骨に染み、脳の皺に溜まり、心を侵し、もはや自らと不可分なものになってしまっている。
このまま呪いのように学びつづけることで、呪いはほどけて消えるだろうか。
それともよりいっそう深く、この呪いは続くのだろうか……。


なんて鬱々とカッコつけて考えたところで、呪いが解けようが解けなかろうが、客観的に見れば「大人になっても勉強ばっかしてる奇特な大人」ということに変わりはないのである。
そして、客観的に見たときのその在り方を、私はけっこう気に入っている。
勉強ばっかしてる大人、いいじゃない。
自分に呪いをかけてる人間、悪くないよ。

なりたい自分、なるべき自分、なってほしいとまわりから願われる自分。
多かれ少なかれみんな、その狭間をさまよいながら生きてる。
だれしもが、それぞれに、苦しみながら生きている。
必死にもがいて考えて、生きる道をさぐり続ける人間は美しいはずだ。


私は今日も勉強をする。
自分にかけた呪いと向き合って、泥に足を取られながら、なんとか前に進もうと願う。行き先は誰も知らない。

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