クイズプレイヤーにはなれないや、という話。

平成教育委員会が大好きだった。
学生の時分はずいぶんとQMA(クイズマジックアカデミー)にのめり込んだ。
習ったばかりの知識がまだ息をしていて、特段「クイズのための勉強」をしなくても、それなりに分かる問題が多かった。

いまでもクイズをするのは好きで、気が向いたときにスマホをとりだして「みんはや」に勤しんだりしている。

「自分の持っている知識が誰かよりも深い」と思える経験は、それはそれは脳汁があふれ出る。
けれど、やればやるほどに「クイズプレイヤーにはなれない(し、特になりたくはない)や」と感じてしまう。


一般のクイズファンと「クイズプレイヤー」には大きな隔たりがある。
クイズプレイヤーというのは、ひとつのスポーツ選手なのだ。

彼らは、スポーツ選手が日々肉体のトレーニングに励むのと同様に、日々知識を蒐集していく。
彼らは、スポーツ選手がイメージトレーニングを行うのと同様に、「この知識はこういう形でクイズになるだろう」ということを想像する。
彼らは、スポーツ選手が試合中に瞬発力を発揮するのと同様に、「この問題ならこの文字で答えが確定する」という判断を大会中に行う。
彼らは、スポーツ選手が試合の反省を行うのと同様に、答えられなかった問題や誤った判断について反省し、検証を行う。
生きることすべてがクイズに繋がることであり、彼らにとってはクイズが生きることなのだ。

ちょっと言い過ぎたかも知れないけど、概ね私はそう思っている。

私は「勉強が好き」で通している。そしてクイズが「結構好き」だ。けれど私の「結構好き」は「ありあわせの知識で殴り勝ちたいだけの、怠け者のルサンチマン」としての「好き」でしかない。
だから、彼らの「好き」とは熱量がまるで違う。だから私は、彼らに尊敬の念を抱いている。彼らは研ぎ澄まされていて、とても格好いい。


彼らはきっと、「高校生クイズ」や「東大王」、あるいは「QuizKnock」なんかを見て、そういう一流クイズプレイヤーに憧れたんだろうな、と思う。
私にとっての知識は、好奇心を軸に、それをみたそうとした果てについてくるものであって、彼らにとっての知識は、クイズを軸にして、得るべくして得たものなんだろう。
これは、どちらが優れているとか、どちらが劣っているとかいう話ではなく、過程や思想が違うだけで、最終的に手に入るものは、ひょっとしたら同じ知識なのかもしれないけれど。

だからこそ、これは単なる思想の話。
だからいつか、私が彼らと同じだけの知識を手にしたとしても、聡明なクイズプレイヤーじゃなくって、散漫に興味をまき散らして脂肪みたいにブヨブヨ知識をつけた、不気味なサブカルオジサンになりたい。

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