般若心経

般若心経の色即是空、空即是色の意味について色々な人が色々なことを言いますが、サンスクリット語の原典ではこの下りは3度くり返されます。

rūpaṃ śūnyatā śūnyataiva rūpaṃ

rūpānna pṛthak śūnyatā śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ

yad rūpaṃ sā śūnyatā yā śūnyatā tad rūpaṃ.

少しずつ表現が変わります。それはまずは置いておいて。

rūpaṃ śūnyatā śūnyataiva rūpaṃ(ルーパム・シューニヤター。シューニヤタイヴァ・ルーパム)が「色即是空、空即是色」。rūpaṃが色でśūnyatāが空です。

rūpaṃ(ルーパム)は存在するものです。なんでもいいのです。あなたも私もリンゴも大腸菌も、存在するからルーパム。śūnyatāシューニヤター)の語源はシューニヤ(スーンヤ)。0です。

0はインド人が発見しました。0,1,2,3と数えていくと、0は「存在しない」という意味になりますが、午前0時は存在しないのではない。午後11時の次は午前0時。そこから又1時、2時と始まるわけだ。だから0というのは1つの「基準」なのです。だって0の反対側には-1, -2, -3と続くんですから。

シューニヤ、0というのは基準点なのです。その概念を、インド人は発見した。

だからrūpaṃ śūnyatā (ルーパム・シューニヤター)を文字通り直訳すると「全ての存在は0だ」になります。そしてśūnyataiva rūpaṃ(シューニヤタイヴァ・ルーパム)と対になるのだから、「0が全てだ」となります。

そう書いてあるんだからそうなんだと突っ放しても良いのですが、これではさすがに何を言いたいのか分からない。だから色々な人が頭をひねってこの意味を考えるわけです。

気がつくべきことは、般若心経は大乗仏教経典だということです。インド人がシューニヤ、つまり0の概念を発見したのは般若心経が書かれた時代(と言ってもいつ書かれたのか正確な年代は分からないのですが)よりも遙か以前です。つまり、般若心経が(śūnyatā、シューニヤター)と言っているのは、数学に於ける0ではない。別の意味が込められています。

般若心経に於けるシューニヤターは、空と訳されました。誰がそう訳したのでしょうか。

記録に残る限り、般若心経を最初に中国語に翻訳したのはクマーラジーヴァであるとなっています。それより古い翻訳があったのかも知れませんが、それは記録がないから分かりません。記録される限り最古の中国語翻訳はクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)によるものです。クマーラジーヴァの正確な生没年は分からないのですが、おおよそ西暦350年頃から410年頃まで生きた人のようです。父はカシミール地方の貴族、母は亀茲の王族だったとなっています。亀茲は今のクチャです。つまりインド人とシルクロードのオアシス都市の住民の混血だったのです。彼こそが、最初にシューニヤターを空と訳しました。

クマーラジーヴァの時代、中国は千々に乱れていました。五胡十六国時代、と言います。彼は亀茲国を襲った前秦の呂光の捕虜になったのですが、前秦というのは氐族が建てた国です。氐族がどういう民族であったかはよく分からないのですが、もともとは青海湖周辺にいた遊牧民族だったようです。中国が乱れたから、こういう有象無象が群雄割拠したのです。まあ、それはいいとして。

ともかく、はじめてルーパムを色、シューニヤターを空と訳したのは、おおよそ西暦350年頃から410年頃まで生きた、クチャとカシミールの混血であったクマーラジーヴァでした。今に残る般若心経は、クマーラジーヴァより200年ほど後の玄奘三蔵(三蔵法師)による翻訳です。クマーラジーヴァも玄奘三蔵もたくさん経典を訳したのですが、般若心経に限っては両者の翻訳はほぼ一致しています。これは、奇妙です。

同じ経典をクマーラジーヴァ、玄奘三蔵双方が翻訳した場合、両者の訳文はかなり異なるのです。理由は色々あるようですが、ざっくりいうとクマーラジーヴァの時代、中国人は仏教があまりよくわかっていなかった。だから彼は、中国人がわかりやすいように訳したのです。要するに、かなり意訳しているのです。一方玄奘三蔵の訳は正確無比な逐語訳です。だから両者の訳文は異なるのです。ところが般若心経だけは、両者の訳文がほとんど一致する。そこが、奇妙なのです。

玄奘三蔵は学僧です。インドまで旅して多くの経典を持ち帰って中国語に翻訳しました。そもそも玄奘三蔵が唐の国禁を破ってインドに行ったのは、どうしてもインドに残る仏典を直接手に入れたかったからです。余談ですが、玄奘三蔵が残した「大唐西域記」をシルクロードに関する文献と思い込んでいる日本人が多いのですが、大唐西域記は現代日本語訳されています。それを読むと、この書はシルクロードに関する本ではないという事はすぐに分かります。何しろ玄奘三蔵はインドに行きたかったのです。その道筋としてシルクロードについて触れているだけです。だから大唐西域記のほとんどはインドについての記載であって、シルクロードの色々な都市国家についてはごく短い記録しか書いていない。それぞれについて一行か二行書いているだけです。

ところが、玄奘三蔵は般若心経について非常に不思議な、あるいは首をかしげる由来を記しています。彼は本来の仏典を求めてインドに行ったのです。そしてインド各地で仏典を採集して持ち帰り、唐の時代の中国語に訳しました。ところが、玄奘の弟子慧立が興味深いことを書いています。玄奘はインドに旅立つ前、蜀においてある病僧から般若心経を伝授されていた、と言うのです。蜀は辺鄙な土地とは言え中国の一部、唐の一部ですから、そこで玄奘が伝授された般若心経はおそらくクマーラジーヴァが伝えたものであったはずです。そして、玄奘三蔵訳の般若心経とクマーラジーヴァの翻訳による般若心経はほとんど一致します。

いったい、般若心経というのはなんなのでしょう?

紀元350年頃から410年頃、クチャに生きたクマーラジーヴァが初めてこの仏典を中国に伝えた。しかしそれから200年も後の玄奘三蔵は、わざわざ命の危険を冒してインドに行き、インドで仏典を求めて持ち帰り中国語訳したにもかかわらず、般若心経については直弟子が「玄奘三蔵はインドに行く前から般若心経を知っていた。それは蜀の病僧から伝えられた」と記しているのです。

おそらく、玄奘三蔵がインドで仏典を求めたとき、般若心経はインドでは手に入らなかったのでしょう。今、般若心経のサンスクリット語版というのはたくさんネットで目にしますが、そのたしかな由来は、実は分かりません。サンスクリット語だからと言って昔からある(いや、むろん数百年以上昔だというのは言えるでしょうが)とは限らないのです。じつは由来がよく分からないのが般若心経なのです。

ここまで纏めましょう。般若心経は歴史に残る限り西暦400年前後にクチャにいたクマーラジーヴァが初めて漢訳した。そしてその200年後玄奘三蔵がこの経典を再訳したが、彼の訳とクマーラジーヴァの訳はほとんど同じであり、おそらく玄奘はこの経典の原本をインドで発見出来ず、クマーラジーヴァの翻訳を下敷きにしたであろう、と言うことです。つまり般若心経は紀元400年前後、シルクロードのオアシス都市国家クチャに存在したことはたしかだが、それ以前には遡れないのです。玄奘三蔵が629年唐を後にしてインドに行って仏典を採集したのは事実です。しかしその時、彼はこの般若心経の原典は見つけられなかった、というのが本当のところなのでしょう。

一方、ナーガアルジュナ(龍樹)が2世紀インドに実在した人物で、「中論」という書物を書き、そこで「空」という概念を確立したということを否定する史実はありません。これほど大昔のことは、それほど突飛では無い話が残っており、それを否定する確固たる証拠がない限り、「実在しただろう」とするほかはありません。そのナーガアルジュナの「中論」で説かれている「空」という概念は、「あらゆる存在は、因果関係のなかでのみ成り立つ」という事でした。全ては因果関係の中の現象なのだから、他を切り捨てた「そのもの自体」は成立しない、と言うのです。このことを彼は「全ては縁起の中にのみ成立する」と言いました。つまり全ては関係性の中においてのみ理解出来るのだから、他とは切り離した「そのもの」というのはない、と言うことです。

これは、非常に科学的な理解です。

例えば、私がこの文章を書き始めたのは3時間ぐらい前です。その間私は夕食を摂りました。私が食ったものは、食うまでは「私では無い何か」でしたが、今まさに「私自身」になりつつあります。晩飯と私はもともと別だったですが、今消化吸収という過程において、それは私になりつつある。つまり「私と私で無いもの」は区別出来ない。

しかもこの3時間の中で、私は2回小便をしました。小便で出た水分は、私の一部であったが、小便になって便器に入った途端、「私で無いもの」になったのです。

このように、「私とそれ以外」を区別することは出来ない。更にここには、「時間」という概念が入ってきます。私がこの文章を書き始めたときと今とでは、概ね3時間という時間が過ぎています。この3時間で、私は間違いなく3時間前の私とは違うことになったのです。3時間分私は歳を取った。その間夕食をとり、2度小便をした。私の身体を構成するものは、変わりました。

だから「色即是空」なのです。私というのは、実在する人間です。私はあなたじゃない。存在している。しかしその「私」は常に移り変わり、変化する。それが「色即是空」。実在するものは絶えず変化し、かつ他との関連の中でしか認識出来ない。色即是空というのはそういうことです。

しかしそこで般若心経は「空即是色」とひっくり返すのです。色即是空である。しかし色というものはみな空なのだから、つまり関連性と変化においてしか捉えられないものなのだから、関連性と変化の中で捉えられるものは色、つまり実在であるというのです。般若心経の斬新性は、ここにあります。色即是空のみなら、遙か昔から言われた無常に過ぎません。しかし般若心経は「空即是色」と対句を付けます。空すなわち色。つまり変化と関連性のおいてのみ認識出来るという事が、つまりそのものが実在するという事なのだ、と言うのです。これは、無常から一歩発展した論理です。全ては無常だ、儚いのだと言うのは、ブッダも言ったし、ブッダ以前の賢人も皆言ったことです。しかし般若心経はそれをひっくり返す。空即是色。空なるものは色である。そこが、般若心経なのです。

般若心経はたどれる限り西暦400年前後のクチャに存在したであろうというのが最古だと言いました。クチャは貿易都市国家です。貿易都市国家において、確固たる真実というのはありません。全てが移ろうのです。代々農業をやってきたインドとはまったく違うのです。貿易都市国家は、儚い。真に儚いのです。般若心経が文献でたどれる限り一番古く確認出来るのがインドではなくクチャだというのは、つまりそういう貿易都市国家の哲学として成立したのではないか。貿易都市国家の基盤は脆く、いつどうなるか分からない。しかしそういう存在を包容する哲学として般若心経が成立したのかも知れません。儚く、変化し、他との関係姿勢の中でしか成立しないというのは、まさしく貿易都市国家そのものです。おそらくそこに暮らす人々が求めた哲学が般若心経であったのかも知れません。

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