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アメリカの抗議デモと暴徒化:崖っぷちに追いやられた者の言葉に耳を傾けられるか

アメリカでは、ミネソタ州で白人の警察官が、黒人の市民を殺害した事件を機に、抗議活動が繰り広げられています。この一連の出来事は、メディアで、暴徒化や略奪が大々的に報じられたり、コロナ禍なのに人が密集していることが問題視されています。

しかし、抗議デモの暴徒化により、100年以上続くお店を燃やされたシカゴ市街地の店主は、「この抗議活動に賛同する。お店は建て直せるけれど、人の命は取り戻せない。」と発言しました。この受け止め方が示唆する、アメリカ社会の根本的な問題について、考えていきたいと思います。

差別の上に成り立つ社会

アメリカの黒人差別の歴史は、安易に語れるものではありません。しかし、アメリカ社会は、住環境、仕事、教育、安全な水や食料へのアクセスを含め、隅から隅まで、差別の歴史を反映しています。

私が住むシカゴ市を例にとると、差別的な都市政策の結果、ダウンタウンを境に、南側に黒人が追いやられ、北側には白人や富裕層が暮らしているという明白な構図が出来上がっています。南側は、教育に対する予算も限られていて、廃墟や空き地が多く、差別により仕事も得にくいため、ギャングがはびこり、治安が悪く、環境汚染も激しい地域です。そして、歩いていける距離にスーパーもなく、車やバスで遠出しないと食料も買えません。また、家賃を抑えるため、狭い部屋に何人もの家族が同居しています。対する北側は、閑静な住宅街が連なり、ホワイトカラー世帯が多く、子供達の学校も地域の図書館もきれいに整備され、徒歩圏内にオーガニック食品などを扱うスーパーや食料品店が何軒もあり、治安も良い地域です。

シカゴに来る観光客は、ダウンタウン以北のシカゴを見るだけのことが多く、南に行こうとすると止められます。シカゴに住んでいる人でも、北側に住んでいる人たちは、南側を危ないところ、汚いところと避けます。同じシカゴ内でのこの違いには、愕然とせざるを得ません。しかし、これは、まさに、アメリカ社会の縮図なのです。

コロナ禍で見えた差別の構造

コロナ禍において、この差別的な構造は、犠牲者の数となってあらわれました。シカゴでは、人口のたった30%を占める黒人が、シカゴ全体のコロナによる死者の70%を占めています。それには、黒人の多くが、普段から栄養状況がよくない中で生活してきたこと、環境汚染にさらされてきたこと、コロナ禍でも働かないといけない仕事についていること、狭い場所に密集して生活していること、そして、コロナだけでなく、差別や暴力、経済的な困難などの問題に直面していることが原因の一部としてあげられます。健康保険に加入していない人が多いこと、医療機関に対する不信が根強いことなども大きな要因です。

コロナ禍で、私たちは、安心して外出できないこと、安心して買い物ができないこと、食料品が手に入りにくいこと、様々な権利が制限されることに不安や不快感を示してきました。しかし、こういった生活は、マイノリティの方々にとって、コロナ前からの日常だったのです。こういった差別を、黒人は、日頃から全身で受け止め、はびこる犯罪や警察の暴力によって仲間や家族を失い、コロナ禍では、さらに、その差別的な構造によって、コロナが蔓延し、周りの大切な家族や友人を何人も奪われてきたのです。

そんな中で起こった今回の事件は、奴隷制度に始まる歴史的な傷、日頃から受けてきた差別への憤り、その差別的構造によって、コロナ禍で家族や仲間を失ってしまった行き場のない悲しみ、そして、これまで、白人警察によって黒人が、正当な理由もなく暴行され、殺害されてきた歴史が続いていることを思い起こさせるできごとだったのです。シカゴ市だけでも、この数年間で、何人もの黒人の方が、白人の警察官によって不当に殺害されてきました。彼らは、黒人というだけで、日常的に地域を見回っている警察官、または、銃を所持した一般の白人に、いつ殺されるかも分からない、私たちには理解し得ない、恐ろしい日常を過ごしてきたのです。コロナによって、その生活は、さらに厳しいものとなりました。そして、今回の事件で、怒りは頂点に達しました。

コロナ禍における抗議デモの位置付け

今回の事件を受けた抗議活動のほとんどは、平和的に行われています。イリノイ州も、シカゴ市も、抗議活動は市民の権利として、社会的距離を保つことを条件に、コロナ禍でも認めています。抗議デモに行くと、ほとんどの人がマスクをつけています。6フィートの距離を保つのは難しいようですが、なかには、参加者にマスクや消毒ジェルを配っている人もいました。

ただし、イリノイ州もシカゴ市も、暴徒化や略奪については、厳しく弾圧しています。現在は、コロナ禍の外出制限に加え、午後9時から午前6時まで、夜間外出禁止令が出されています。抗議デモがあると情報が流れた地域には、警察機動隊が動員され、店舗前などを中心に大人数で配置されています。また、州の軍隊が出動し、道路の封鎖などを行い、抗議デモが拡大しないように、そして、暴徒化しないように対策をしています。

それでも、各地において、大規模なデモが行われ、一部暴徒化して、車や店舗が燃やされたり、破壊される行為がありました。私の近所でも、警察機動隊とデモ隊の衝突があったり、店舗のガラスが割られて、略奪が起こったりしています。現在は、予防策として、食料品、お酒、服、電子機器など扱う店舗や銀行などの壁にベニヤ板が張られています。また、お店も臨時休業しているため、食料品を買う場所が限られた状況です。

コロナ禍で行われる平和的な抗議デモは、合法的であり、また、州や市が全面的にサポートしているものなのです。ただし、州をまたぐと状況が変わってくることも念頭に入れておかなければなりません。ここでは詳しく書きませんが、首都のワシントンDCをはじめ、米国各地で、平和的な抗議デモが、警察や政府により、暴力的に弾圧されている場面が多く見受けられます。

社会運動における暴動の位置付け

抗議デモ参加者は、基本的には、暴動も略奪も決して許されることではないという立場です。しかし、冒頭で紹介した、100年以上続く店舗を燃やされても、この抗議活動を支持すると発言した店主のように、SNSでは、暴徒化にも理解を示す投稿が多く見られています。その根拠は何なのでしょうか。

今回の暴動の一部は、抗議デモとは関係のない人々が、この機に乗じて起こしたものもあります。それについては、様々な情報や見解があるのですが、ここでは割愛します。

しかし、抗議のための暴動とは、どのような立場から容認できるのでしょうか。それを理解するには、どうして暴動という手段に出なければならなかったのか、暴動という手段は、何の結果なのかということを考えることから始めなければなりません。これまで、黒人を殺害した白人警察官は、どんなに証拠が積み重なっても、責任を逃れてきました。それに対して、黒人は、日頃から、身に覚えのないことで捕まり、その場で殺害されてしまうことも多々ありました。それに対して、抗議デモを行なっても、法に訴えても、どれだけ正規の手段で声をあげても、何も変わらりませんでした。そして、なんども、同じ残虐な行為が繰り返されてきました。いつも守られるのは、白人、そして、その権力と財産でした。警察は、その差別性と暴力性を象徴する組織として、今回、抗議の対象となっているのです。

暴動は、正規の方法で何を行なっても耳を傾けてもらえない中で行われた、解決策ではなく、少しでも問題に目を向けさせるための手段だったのです。しかし、今回の暴動が起こった際、メディアの多くは、抗議活動ではなく、破壊された店舗や略奪されたモノを大きく取り上げました。破壊されたものの多くは、白人が黒人の労働を搾取して作られたモノでした。メディアは、略奪によるマジョリティの人たちの不安を取り上げ、略奪という手段に出ざるを得なかったマイノリテの人たちの要求や苦しみには耳を傾けませんでした。それどころか、破壊されたモノばかりを映し、抗議する人たちを問題視し、そこに至らせた差別や、それを根付かせている白人至上主義、資本主義、植民地主義には目を向けませんでした。メディア自体が差別的な構造に加担してきたのです。

キング牧師は、暴動は聞いてもらえない者の言葉だ、と言ったそうです。米国社会は、白人が、先住民の土地を奪い、黒人奴隷や移民の労働を搾取し、彼らの多くの犠牲のもとに、白人にとって都合がいいように作られています。この社会のルールも、正解も、自由と平等の名の下に、白人が恩恵を受けるようにできています。その規定の中で何かを変えようとしても、その訴えは見向きもされず、何も変わらないのです。既存の社会のあり方を根底から揺るがすためには、ときに、白人の利権を守るために作られた社会の差別的なルールを破らないといけないのです。

今回の暴動に理解を示すSNSの投稿の多くは、私たちが、奪われた命よりも、奪われたモノに気を取られていると言う状況を危惧するものでした。略奪行為や破壊行為は、白人至上主義の中で黒人を搾取してつくられたモノを守るのではなく、残虐に奪われていく命を守って欲しい言う訴えでもあるのです。そして、略奪ばかりを問題視する人々に、黒人の命について考えて欲しいと訴えているのです。崖っぷちに追いやられた人々の言葉に、どう耳を傾けるのか、それが問われているのです。

暴動を見る目が映しだす偏見

私たちが暴動を見る目は、私たちの中の社会的立場や偏見を映し出します。私を含め、多くの人は、今回の事件に憤りを感じて、何かしら反応しても、そのあとは、何事もなかったかのように暮らしていけます。暴動も、家のテレビや、現地の安全な場所から見て、壊されたり奪われたりしたモノの映像に気を取られ、「怖い」「逆効果だ」「民度が低い」などとコメントし、その裏にある歴史や苦しみ、訴えに耳を傾けることはありません。

しかし、この暴動を、何世紀にもわたる組織的、構造的、そして、日常的な差別を受け止め、基本的な人権も守られないまま、その命を虐げられてきた人々の怒りの結果だと思えば、どうしてここまでしなければならないのかが、わかってくるのではないでしょうか。決して、暴動を正当化したいわけではありません。でも、暴動を見たときに、私たちが見るべきなのは、モノの破壊行為そのものではなく、その行為に至らざるを得なかった彼らが背負ってきた差別的な構造と、その中での苦しみ、怒り、悲しみ、恐怖なのです。

黒人であるからという理由で、差別という空気を吸い、常に犯罪者かのように見られ、監視され、そして、銃を突きつけられて生きている、その限界を超えたところのデモであり、暴動である。それは、私たちのように、コロナになって初めて外に出るのが怖い、人と接するのが怖いと思ったり、警察に道で出くわしたときに、守ってもらっていると思える人たちには、到底分かり得ないものかもしれません。でも、日頃から、ニュースを見るときに、何が問題として提示されているのか、誰にとっての問題なのか、などと考えられたら、少しずつ、そういった根本的な問題に目を向けずともニュースを消費している私たち自身の偏見に気づけるようになるかもしれません。

私たちは、普段から、差別的な構造とそれに根付いた視点が映し出す景色を見ています。例えば、ルイジアナ州でハリケーン・カトリーナの災害があった際、新聞で、被害を受けたお店から物資を運び出していた白人の写真が掲載されました。そこには、みんなに物資を届ける「ヒーロー」という見出しがつけられました。しかし、同じことをしていた黒人の写真には、この機に乗じた「略奪」という見出しがつけられました。こうした視点、メディアによる表現が映し出す社会の構造を考え、疑問を持つこと。そして、生活の全ての面で、自身のバイアスを見つめ、解いていくこと、その過程を時間をかけて、丁寧に行なっていくことが、今、必要なのです。


メディアによる『略奪』の映像を見たときに、破壊されたモノに目を向けるのか、それとも、私たちの快適な暮らしを可能にするために、奪われてきた多くの黒人の命、そして、差別的な構造に目を向けるのか。

ただ耳を傾けて欲しいだけ。たた生きたいだけ。ただ息をしたいだけ。たったそれだけのことなのに、それを許されない人々の発した、最後の手段としての「言葉」を、私たちは、どう受け止めるのか、そして、それにどう向き合って行くのか、それが、今後の大きな分かれ道になってくると思っています。



 

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