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「体ひとつで生きていきたい」21歳の僕の言葉をみて
本題に入る前に。
僕の生活にインターネットが当たり前になった1998年、世界に発信、受信する事の難しさを知った。それからGID(性同一性障害)界隈から離れて19年、その間は仕事や趣味でSNSを利用していた。
極力、言葉を選んできたつもりであるが、もちろん失敗もする。僕の意図した言葉とは正反対に受け止められるのを感じると、表現力のなさに申し訳なさも感じる。ただ、これは発信側だけでなく受け取る側の心や環境でも変わる。
なので「僕は」と書いていく事をいつも心がけている。その前提で読んでいただけたらと思う。
散々書いてきた様に性同一性障害である僕はその中でもシンプルで理解されやすいタイプだと思う。昔の男女の概念と僕の男らしさの基準が見た目で判断できるほど寄っているから。でもこれを発信する事で「これが当たり前だという概念を作って欲しくない」と思う方もいる。
だが、よく考えてほしいのだが、これは僕の事であり、僕の言葉である。そしてそれはGIDの世界だけでなくどの世界でもある。それぞれの社会にさまざまな意思が存在していて、共存しているのが人間社会ではなかろうか?
今から話す事は混乱するかもしれないが、僕がひっかかってきた事が少し解けた気がしたので書いておきたい。
僕はここ(シンプルに僕にー)で書いた様に僕にとって男性器がアイデンティティであって、ここ(エロい中年男ー)で書いた様に理想の男とはという見た目がある。このコアと外観が僕が男性である証しだと思っている。
すると、僕以外の女性から男性へ移行をした方(トランス男性)の中で男性器を付けていない人は男性じゃないということ?と聞かれた。そうじゃない。
他人に男性器がなかろうと、服の上から男性と見える人は僕にとっては「男性」であり、子宮があり戸籍が女性でも、男性とみえたら男性である。その逆、男性から女性に移行した方(トランス女性)もそうで、僕が女性にみえたら女性。最近でいえば加工三昧の女装家の方でも女性的であれば画面上では女性と認識してしまう。僕は主観的な考えだ。
ただ、トランス男性だと言われても明らかに女性的であったり、トランス女性だと言われても明らかに男性的であれば、残念ながら僕は本人の希望通りに見ることはできない。それが差別だと言われても、すれ違うほども関わりのない他人の僕にはその人の内心なんて見えないから。
しかし、逆に言えば、信頼関係を築いた上でのカミングアウトなら大丈夫だということ。ただし、短髪髭面のおっさんの友人にカミングアウトされても急に女性には見えない。逆もしかり。なので受け入れていく時間を、猶予をください。
(親はカミングアウト後、僕が周りから男性と見られるから「息子」と言える様になった。親が受け入れて行く時間も必要だという話)
戸籍の性別変更の手術要件が違憲となり、手術しなくて変更されている方が増えてきた。するとSNSでは批判もよく目につくようになり、僕自身や他人の性別、その証明についてこの様に考える機会をえた。
僕自身は男性器がないと自分を男性だと思えないが、他人の性器がどうであろうが、そうみえたらそうだ!ということに辿り着いた。
すると、僕は他人と僕でなぜこうも違うのかと考えてみた。それは僕が女性で産まれ、自分が男性だと証明する事が男性器だと思っていたのかもしれないと気づいた。もし、男性で産まれて何かしらで欠損した場合、同じ手術を受けていたか?と。命を引き換えにしてもしていたのかはわからない。
ないからソレに囚われたのか、今は似せたモノでもあるからそう考える事ができるのか。
治療記録ーに「体ひとつで生きていきたい」と書いていたのを読んで思い出した。立ちションヘルパーや男性器があるように小道具を仕込むしんどさ。何があっても自分の体だけで生きていけるようになりたい。そう、思っていたんだった。
もう、考えなくても生きていけるのに、未だ考えてしまう。ただ、自分に関する事の掘り下げは、違う分野でも生きていく事を知った今、しっかり向き合っていきたいと思うようになっている。
これは思ったより、先の自分の為になると思っている。
その理由はまた。