日記:ディスコエリジウムを二日目までプレイして

※ディスコエリジウム序盤のネタバレを、気にしなくて良い程度に含みます。

 レヴァショール東地区の放送音が頭から離れない。

 2022年にプレイした中で「面白かったゲーム」「楽しめたゲーム」「つらい現実を生き抜くための支えになったゲーム」を挙げろと言われたらいろんなメジャータイトルが思い浮かぶが、「凄かったゲーム」はクリア前にして恐らくディスコエリジウムが不動の地位を確立してしまった。
 清書は別場でやるとして、できるだけ早めにこの衝撃を残しておきたいと思ったため、日記の体で残しておく。

 ディスコエリジウムの概要を説明をしておくと、記憶を失った主人公の警察官が、記憶喪失前から携わっていたらしいとある殺人事件の捜査をするゲームだ。聞き込み調査をしたり証拠を集めたりというのは日本でもよくあるゲームシステムだが、公式のジャンルは「アブノーマルなRPG」と銘打たれている。
 このゲームの特徴は、推理ものにして主人公にステータスがあることだ。体力、気力はもとより、論理力、魅力、教養、反射神経などといった24個の人格構成要素にプレイヤーが好きにスキルポイントを振ることで、ゲーム中で手に入れられる情報が変わる。
 聞き込み調査をする時に、自分が魅力的な人間であればより多くの証言を引き出せるし、演劇の素養があれば嘘を見抜きやすくなる。逆に運動神経がないのに無理に証拠を追い求めて動き回ったり、繊細な性格なのに証人と口喧嘩をするとダメージを受ける。あと銃の扱いが下手なら銃を持つな。スキルポイントは捜査を進めたり、人を助けたりすることで得られる経験値によって伸ばせる。
 キャラクターの人格という「ステータス」をHPや攻撃力のように「レベルアップ」させて難事件を「攻略」するのだからRPGで間違っていない。ただし、その結末もまた主人公の性格と行動によって様相を変えることだろう。
 イメージとしては、あらかじめ用意された物語の枠組みの中で、自分好みのキャラクターシートを作って遊ぶTRPGのリプレイに近い。しかし、TRPGのゲームマスターを全てビデオゲームの内部データで代替した作品なんて今まであっただろうか? 当然のことながらゲーム内テキストは膨大な量となり、ローカライズ前の英単語は100万語を超えたとか……翻訳チームはちゃんと眠れたのだろうか。

 このゲーム、プレイして最初は正直不満も多かった。UIやチュートリアル、セーブ周りがかなり不親切だったし、そもそもSwitch版でたまにフリーズするのは大問題だ(30分くらいの捜索がやり直しになった)。本作の売りであるテキストの量にも「限度があるだろ」といささかうんざりしていたのだが、捜査二日目に入ったあたりから非常に面白くなってきた。大筋のストーリーはまだまだ謎だらけだが、徐々にこのゲームの「テキスト作品としての凄さ」を見出しつつある。
 シナリオを書いたのはエストニア出身のミュージシャン兼小説家らしいのだが、彼が何故小説ではなくゲームの世界に身を投じたのかは、ゲームひいては小説の行く末を考えるにあたって極めて重大な問題な気がする。「創作された架空の世界を通じて、受け手に『今、自分たちがいるこの現実』に関するメッセージを伝えるテキストの集合体」として、現代に生きる全ての小説家はディスコエリジウムに太刀打ちできるか、今一度考えるべきだ。
 小説はいつだって時代を反映してきた。若者の自我も老衰の苦悩も情報化社会も、今を生きる上で悩みや障害となることが文学作品として君臨していたわけだが、俺にとって、ドンピシャの『今』を表そうとしているテキスト作品の最たるものがディスコエリジウムだ。そして、これからの小説でこういった作品に出会えるのか少々疑っている。
 ディスコエリジウムは極めて多面的な思想を持つ物語だ。登場人物たちは良い意味でも悪い意味でも魅力的な連中ばかりで、その魅力は彼らのはっきりとした思想から発せられている。右翼、左翼、資本主義、共産主義、自由主義、権威主義、プロレタリアート、ブルジョワジー、レイシスト、フェミニスト、ミソジニスト、穏健派……彼らは自分の思想に則って生きており、時には団結し、自らが抱える思想を肯定してくれる人に優しい。
 政府や警察本部や民間企業や労働組合を前にして主人公は、失礼、記憶と財布と制服と身分証と車と銃を失くした警察官は、彼らの中から味方を探し出して、同じく思想の交錯によって引き起こされたらしい殺人事件の情報を集めなければならない。
 となると当然、情報収集には主人公の性格と能力が大いに影響してくる。警察は政府の犬? それともこき使われる労働者? 誰に肩入れするかによって事件の扱いは大きく変わる。もしあなたが誰の協力も仰がず、どこの陣営にも属さず、「たった一人で」事件を解決したいと言うのなら……それもまた一つの選択だが、捜査は過酷を極めるだろう。勤勉な清掃活動(=ゴミ拾い)で日銭を稼ぎ、コネ無しの弁論術で相手の警戒心を解き、それでもなお恫喝や物乞いといった奥の手からは逃れられないかもしれない。
 そして大筋の事件だけでなく、個々の人物が教えてくれるサイドストーリーがまた目眩がするほどのボリュームだ。共産主義革命の歴史、UMA目撃情報、何故か絶対に潰れない商店、飲んだくれのとっておきのジョーク、被差別人種の同僚、心を開かない少年少女たち……事件に関係あるのかないのか、興味深い話が山ほどある。そしてそれらの全貌を伺えるかどうかは、やはり主人公のスキルシート、つまりプレイヤーの采配=思想や興味によって決まってくる。真実がプレイヤーの数だけある。
 小説ではひとつひとつのセクションの順序を入れ替えたり、興味があるものだけかいつまんだり、ましてや「書いてあることに共感するルート」「反発するルート」で違う中身のものを味わったりなんてできない。だが、ディスコエリジウムが体現したこのスタイルこそが今の時代のテキストの味わい方としてふさわしいように思えるのだ。
 SNSで多方向から洪水のように意見が飛んでくる現代で、自分の位置づけというものは誰かに導かれるものではなく「周囲との物差し」で認識するものではないだろうか。自分が世界の中心ではないし、決して分かり合えないであろう人だって視界に入ってくる。そんな情報の洪水の上に自意識を浮かべてみて、転覆しないように注意しながら自分が選択したい行動を問い続けることで本来の自分というのは見つかるのだと、最近のSNSを見ているとそう思う。
 重ねて言うが、ディスコエリジウムはまだまだプレイ中。最終的な評価は少なくとも一度は結末を見てからNoteに書くことになるだろうが、今ここでプレイを止めたとしても元は取れたと考えている。俺の分身たる主人公は今、自己批判精神を習得したところだ。これで共産主義に染まった労働組合の連中と仲良くなれるといいのだが。

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