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3.コーヒー諸学の危機と超越論的現象学

 コーヒーをひとくち飲みます。そのコーヒーはどんなコーヒーですか? 美味しいコーヒー、不味いコーヒー、苦いコーヒー、酸っぱいコーヒー、熱いコーヒー、冷めたいコーヒー、そのコーヒーは本当にあるのでしょうか? ある! なぜならわたしは今コーヒーを飲み知覚したのだから、それはある。

 我コーヒー飲む、故にコーヒーあり。

 我々は感覚に依存して物事を認識しているが、はたしてそれは認識したとおりに存在しているのだろうか?
 ルネ・デカルト『方法序説』

 デカルトは、これまで人生で体験した物事が全て幻想であるかもしれないと極めて理性的に疑いました。岩波文庫の『方法序説』をひらくと―理性を正しく導き、学問において真理を探究するための―方法序説―とあります。

 デカルトは生活のなかでこの「方法の話し」に到達しました。イエズス会の神学校で優秀な生徒だったデカルトは、ユーグリッド幾何学のような定義と公理とから出発する数学こそ最も明白な真理を示す学問だと認めます(XYのデカルト座標はあまりにも有名です)しかし数学のように確実に証明可能な世界の真理を追究するあまり、デカルトは机上の学問に疑いをもち、18歳で学校を卒業すると同時に書物を捨て、「世間」という書物だけを読もうと決心して旅にでました。旅をしながら観察するうち、人間は確かな認識によって生きているのではなく、習慣によって生きていることに気がつきます。自己のなかに巣喰う偏見や非理性的な習慣を改め、自己にたいする理性の支配を徹底的におこなうことこそ哲学である。デカルトは通常では疑われず明白だと認められる知識を意識的に疑い、それでも疑いえぬ最小限の真理を自らの学問の出発点にすることに決めました。

 人がありありとした現実感をもった夢を見た時、その時それがどれほど確かな現実だと思えたとしても、醒めてはじめて夢だと分かる。逆に言えば、いま誰もがこの現実を確かな現実として疑いなく生きているが、しかしいま自分が見たり感じたりしたことが夢ではないという保証は、どこにもない。それを論理的に証明する方法を、誰ももたない。

 デカルトの疑いは自分の感覚や世界そのものにまで及びました。人は物を知るのに自分の感覚を信頼することで、物は自分の見えるとおりにあると認めて疑わない。しかしその感覚は本当に確かなのだろうか? もはや自分も世界もあてにならない。どんなものでも疑いだしたら疑わしいが、疑いに疑った末、たったひとつの疑いえないことは自分が今こうして疑っているということだ。物が存在するかは分からない。自分の身体が存在するかも分からない。しかしそのようなことを今この瞬間に疑う「我」が存在することだけは疑いえない。この「考える我」こそ唯一たしかな存在であり、そのたしかな「我」をもってはじめて世界を正しく認識することができる。

 我思う、故に我あり

 西洋随一の頭脳をもつ男は、この一行を書くため数十年の旅を必要としました。デカルトはこの「考える我」という態度を獲得した後、それを土台にようやく哲学の仕事にとりかかり「方法の話し」を書いたのです。開眼後のデカルトは、旅人からたちまち隠遁者になりました。

 世間で演じられる劇で、俳優たらんよりむしろ観客たらんと努めながら

 ベーコンからヒュームに至るイギリス経験論者は、命題を導くために実験を繰り返し、可能性を排除して排除しきれ得ぬものを命題とし、また実験を繰り返しながら排除し、命題へ導くための方法、すなわち「帰納法」を生み出しました。

 これに対しデカルトは、理性を使って一般法則を導き出し、それを現象に当てはめる「演繹法」を生み出し、その方法はスピノザやライプニッツに継承され、イギリス経験論と大陸合理論を綜合するあの男に、歴史の流れはむかいました…

 カントさん、「空はなんで青いの?」

 「空は青い」のではなく、人間の認識能力で「空が青く見える」から、「空は青くなる」

 カントは認識の限界を命題とし、人間の理性能力の検討に取り掛かかりました。カントは「空は本当に青いのか?」という物自体に対する問いではなく、「空が青く現れる」人間の認識能力を問うのです。

 認識は対象に従い規定されるのではなく、対象が認識に従い規定される

 このコペルニクス的転回からカントの認識論は始まります。わたしたちの主観は対象をどのように構成しているのでしょうか? 人間の認識が経験とともにはじまることは疑いえません。しかし全ての認識は経験から生じるわけではなく、人間の経験から生まれる認識といえども、それは経験だけで成立しているのではありません。カントは経験的認識を明確にするため、人間の認識能力を三つに分けました。すなわち「感性」「悟性」「理性」という概念です。

 わたしは温かいコーヒーを、ひと口飲む。「感性」とは対象を認識する受容作用であり、対象は感性を介して人間に与えられます。直感によって人間に対象が与えられると、次に「悟性」が対象は何かを考え、事物の概念を生み出します。人間の経験的認識とはこの直感(感性)と概念(悟性)の結合でありますが、カントはそのような「経験的認識」に「先立つ認識」があると考え、認識を、経験に基づく認識(ア・ポステリオリ)と経験に先立つ認識(ア・プリオリ)の二つに分けました。

 今日太陽が登った。明日もまた登るだろう。しかし二千億年後にもまた同じように登っているだろうか? 経験的認識ではある一定状態の下で一定の事象が繰り返し経験されたとしても、次もまた繰り返し起こるとは言いきれません。カントはより必然性と普遍性をもつア・プリオリ(先験的)な認識に重点を置き、物自体と現象の命題に取り組みました。

 「物自体」とは対照のあるがままの姿であり「現象」とは人間に対して現れる姿である。

 ここに一杯のコーヒーがあります。わたしが認識する対象はコーヒーの物自体ではなく、わたしに現れるコーヒーという現象です。しかし人間の主観の中にはア・プリオリな認識の形式があります。試しにわたしが持っているコーヒーカップという物体の概念から、経験的なものを取り払ってみましょう。白いカップの色、陶器の感触、重さ、中身の温かいコーヒー、これら全てを取り去った後にもまだのこるものは何がある? それは物体が占めていた空間であり時間であります。すると時間と空間は物自体の性質ではなく、経験的直観に先立つア・プリオリな形式であると言えるのではないでしょうか。

 人間の認識はけして悟性の認識で満足するものではなく、常により深い認識を作り出そうとします。理性はこれを認識の推論という形で行います。理性の役割は対象に対して関係の系列を推論し、認識を深め、体系的な認識を得ることにあります。理性は認識体系統一のため、他の何ものによっても制約されず、それ自身によって存立する「無制約者」を求めるという本性を持ちます。理性が求める無制約者とは「魂」「自由」「神」の三つであり、理性とは、これらの形而上学的ことがらについて根源的で完全な答えを求める本性をもち、理性こそ、まさに形而上学に直接かかわる能力であり物事を推論する能力なので……〈エポケー!〉話が飛躍しすぎている。今はコーヒーの話をしよう。〈エポケー!〉判断停止せよ。

 〈エポケー!〉ようやくフッサール先生がお目見えになりました。わたしの命題はコーヒーを脱構築することであり、形而上学的な云々ではありません。しかしわたしは方法のために、デカルトとカントの話を必要としました。フッサールという方法を使うため、わたしは殆んど混乱しながら書き、わたし自身のために理解しているのです。わたしはこれからフッサールを書きながら試し、次にデリダを試して、わたし自身の問題を明確にしていきたいと思います。ところで、スペシャルティコーヒーとは数学であり、科学であります。しかしコーヒーを飲むという行為、それはひとつの体験であります。

 「美味しいコーヒーとは何か?」あなたは「誰と」そのコーヒーを飲みましたか? 好きな人と楽しい会話をしながら飲んだ! するとそのコーヒーは確実に美味しくなるのではないでしょうか? あるいは仕事がうまくいかずいらいらしながら飲んだ? まったく同じ種類のコーヒーを同じ抽出方法で飲んでいても、その時の気分によりコーヒーに対する知覚は変化しているのではないでしょうか? 主体が客体に向ける意識とはそれほど曖昧であり、主体は客体を確実には認識することはできません。デカルトやカントの命題に従うなら、そもそもコーヒーが存在しているのかも疑わしいのです。それではどうすればよいのでしょうか?

 客体の実在は確実に把握できませんが、デカルトの言うように、主体が何かを思っていることは本当です。主体はいまコーヒーを飲み、「美味しい」と思った。そのとき客体(コーヒー)への意識を一旦停止し、主体が「美味しい」と意識したその「意識の在り方」に意識を向けること。これが現象学的還元です。

 なぜそのようなことをする必要があるのでしょうか? 客体が「ある」ことを前提とし、それを描写、分類、体系化することは科学をはじめとする学問のなすことです。ガリレオ・ガリレイの自然科学以来、人類はその測定術で人間の認識を数学に結びつけ、それを「幾何学的思考」というかたちに理念化し、数量化し、一般化し、客観化していきました。しかしそのようにしてコーヒーを体系化することが、本当に正しいことなのでしょうか? あなたが本当に大切にすべきこと。それはあなたの意識のなかにある「美味しいコーヒー」ではないのか? これがフッサール先生の問うことです。わたしは「美味しい」と意識したときの「わたしの意識」に注目することで、客体や現象により近づくことが可能になる。「事物そのものへ!」そうフッサール先生はそう言います。

 「コーヒーそのものへ!」これがわたしの命題です。物理、科学、経済学、コーヒー学…いま様々な学問は客体を描写し分類し、それを体系化しようと試みます。しかしそのような態度こそ生活世界から離れ、学問を無意味なものにしているのではないか? 学問の役割はもっと事物によりそうことである。そのような態度のことを、「超越論的認識」と先生は呼びました。認識なき学問が今ヨーロッパ諸学を危機にさらしている。もちろん先生の言う「ヨーロッパ諸学」とはメタファーであり、ナチスの嵐吹き荒れる中ユダヤ人の先生がなんとか出版にこぎつけた書の示す「危機」とは、まさにファシズムのことでしょう。

 先生は「意識する主体」の意識が「対象へ向ける矢印」を〈ノエシス〉と名付け「矢印が向かう先」を〈ノエマ〉と名付けました。これはソシュールの〈シニフィアン/シニフィエ〉にも似通る概念のように思えます。コーヒーの〈ノエシス/ノエマ〉あるいは〈シニフィアン(意味するもの)/シニフィエ(意味されるもの)〉さぁわたしはこの態度をもって、これからまったく新しいコーヒー学をはじめていこうと思います!

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