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『意志と表象としての世界』第二巻 まとめ

 世界に表象のほかになにもない場合、世界は実体のない夢か、妖怪じみた蜃気楼のようにわれわれの傍を通りすぎていくことだろう。

 われわれの身体は、純粋に認識する主観にとっては他のあらゆる表象と同じく表象であり、その限りにおいては、身体のおこなう運動や行動はあらゆる他の直観的な客観の諸変化と同様にしか、認識する主観には知られていない。

 認識主観は身体と一体をなして現れるが、身体はこの認識主観に対し二つのまったく異なる仕方で与えられている。第一は、悟性的な直観における表象として、第二は、同時にまったく別の仕方で、すなわち意志として。

 意志Welleは、自分自身の本質、行為、運動の意義を明らかにし、それらの内的な機構を示してくれている。

 われわれは表象の内奥に本質としてある意志を、人間や動物や植物が成長していく力に、いや、それだけではなく、結晶を形成する力に、磁力を北極に向ける力に、物質の親和力というかたちをとり離合集散として現象する力に、石を地面に、地球を太陽に引きつける力に、動物の工作衝動(鳥の巣作りや、蜘蛛の網張りなど)消化、血液の循環、分泌、再生などにおいて、これらのすべては表象の面では異なっているが、内的本質のうえからは同一のものと認識されるべきであり、それが歴然と姿を現す場合には意志とよばれ、意志は盲目的に動いているのである。

 ※つまり自然の合目的性は意志の動きである。ちょっと汎神論ぽくなってくる。

 このようなところまで反省を適用していくことが、われわれを表象に立ち止まらせることなく、これを超えて物自体へと導いていく。すべての表象、すなわちすべての客観は現象であるが、ひとり意志のみが物自体である。すべての表象は意志の現象であり、意志が目に見えるようになったものであり、言い換えると、意志の客体性である。

 意志は盲目的に作用しているすべての自然力のうちに現象し、人間の思慮深い行動のうちにも現象する。盲目的といい、思慮深いといい、この二つの大きな相違は、現象することの程度に触れているにすぎず、現象するものの本質に触れてはいない。

 従来、意志という概念は、力という概念のもとに包括されていたが、わたしはこれをちょうど逆にして、自然の中のあらゆる力を意志と考えてみる。

 ※ショーペンハウエルは「力」という概念についてこのように説明している。力という概念は、客観世界の原因の原因のさらに原因であるあり方自体を意味しており、原因のさらに原因であるあり方とは、原因論的にはこれ以上説明のできないぎりぎりの地点、いっさいの原因論的説明の必然の前提をなしている地点に立っている。つまりカント的に言うと、純粋理性の理想、或いは合目的性、つまりショーペンハウエルにとって〈神=力〉。と言うことは、ニーチェの言う「力への意志」とはつまり…この辺りからニーチェ読み返すとなんか発見がありそう。

 現象のおのおのは根拠の原理(時間、空間、因果性)に従属しているが、物自体としての意志は、根拠の原理がさまざまな形態をとって現れるその領域の外にあり、端的に言って根拠というものがない。

 意志が無根拠であることは、意志がもっとも明白に現在化する場所、人間の意志として現在化する場所において実際に認められていて、だから人間の意志は自由であるとか、独立しているとか呼ばれてきている。しかし意志のこの無根拠性に気をとられ、人々がたちまち見過ごしてしまうのは、現象をあらゆる場面で支配している必然性であり、そのため自由でもないような様々な人間の行為を自由だと言明したりしている。

 行為の最中にある人間は、あらゆる他の現象と同様に、根拠の原理に従属せざるを得ないが、しかし行為においてではなく、自己意識においてはやはり自由の意識はある。

 しかしややもすると見過ごされるのは、身体は物自体としての意志ではなく、意志の現象であり、現象として限定されていて、現象の原理、すなわち根拠の原理に入ってしまっていることである。すると次のような奇妙な事実が現れる。誰でも自分を、完全に自由であると思いこみ、いつなんどきでも自由に別の生活態度を始めることができるとか、つまり別の人間になることができるなどと考えているとすれば、それはアプリオリにそうだというだけであり、アポステリオリには、誰でも経験によって自分は自由ではなく、必然性に支配されていて、どんなに決意し反省してみても自分の行為を変えることはできず、一生の始まりから死ぬまで、自分でも嫌だと思っている性格をもちつづけていくだろうし、いったん引き受けた役割を最後まで演じ切らなければならないのだと合点して、自ら驚いている始末である。

 その他 二十八節より
 カントは経験的性格と叡智的性格との区別を示し、自由と必然との間の関係を、物自体としての意志と、時間における現象として説明することで、見事に不朽の業績をあらわしている。叡智的性格はプラトンの言うイデアと一致するし、もっと本来的にいえば、イデアにおいて現われる根源的な意志の動きと一致するのである。(この問題は五十五節で詳しく論ぜられる)

 ※つまり意志と表象は二元論であり、この場合、自由と必然の対立である。

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