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『南洲翁遺訓』追憶

 あたや、西郷どんが好きやなか。わけころは、そうおもっちょった。

 子供の通う中学の学習発表会で、鹿児島市内の遺跡を探索する授業があった。

 各自が気になる遺跡をまとめるといった内容で、やはりというか無論というか、西郷隆盛が人気だった。

 我が子のはなんなんかしらん、ページをめくると乃木静子とあった。乃木将軍の妻は鹿児島出身だったのか? そんなん知らんかったわ!

 我が子が通う中学は自分も通った学校だ。校舎をうろついていると自分の中学時代を思いだした。

 鹿児島の偉人はなんといっても「西郷さん」である。

 これには有無を言わさぬふるさとの翼賛的な〝圧〟があり、それはこの街に偶然生まれたものにとって、必然の〝鎖〟である。

 先生(まわりの大人たち)は、西郷隆盛のように「りっぱな人間になれ」というあのふるさと特有のイデオロギーをぶんぶんふりまわしてくる。

 ところが、である。そんなことを言われてもこっちはカート・コベインに憧れぼろぼろのニットを着る中学生なのだ。義務や努力や忍耐とかいう恐ろしいものとはなるべく関わりたくない。

 するとおまえは横着な人間だ云々とたっぷり叱られるのである。これは今にして思えばまったくの図星であり、そう言われるとぐうの音もでないのであるが、しかし先生は西郷さんみたいに精神を鍛錬して、もっと「おおきな人間になれ」と付け加える。

 そんなこと言われてもよぅ! デカルト以来の物質と精神の二項対立も知らんくせ、なら「精神」ってどこにあるのか見せてみろやぁ! と無駄な知識の贅肉だけはたっぷりついた今の私ならカート・コベインのように反抗できるのだが、言葉を知らない当時の私は「西郷なんてダサい!」と言って先生にピックをなげつけた。

 いまでもあの頃からたいして成長のない私の精神ではあるが、しかし歳をとると共にニルヴァーナの毒はすっかりぬけ、じつは少しずつ西郷さんに親しみを覚えるようになってきた。

 いまになって冷静に考えると、あのとき私が西郷さんに感じていた嫌悪感は、むやみやたらに西郷さんを崇拝するふるさと特有の集合意識にたいしてなのであり、もちろんいまでもそのような意識にたいしてはうんざりするのだが、それと西郷隆盛というものそのものとは、考えてみたら別である。

 ようするに、私は大人になり、西郷隆盛を現象学的に還元することができるようになってきたのだ。

 授業参観が終ると自宅に帰り、『南洲翁遺訓』をぱらぱらひらいた。

 徒然草を思わせる。論語の引用がおおくある。

 八
 先ず我が国の本体を居ゑ風教を張り、
 然して後徐かに彼の長所を斟酌する

 西郷さんは論語の言葉で自己を励ましたのではないだろうか?

 子曰く、之を導くに政を以ってし、之を斉えるに刑を以ってすれば、民免れて恥なし。これを導くに徳を以ってし、これを斉えるに礼を以ってすれば、恥有りて且つ格し。
 為政 第二 三

 《西洋の制度を採用して日本を開明するよりも先にやるべきことがある。先ずは日本が国柄を確定し、徳をもってそれを支えることだ。西洋の模倣ばかりしていても日本は衰え、廃れ、結局は西洋の支配を受けるだけではないか。先ずは徳によって人民を指導し、秩序を整えたなら人民は恥を知り、自然と正しい方向へ定まる筈》

 一一
 文明とは道の普く行きはるるを賛称せる言

 《早くに資本主義と民主主義を形成した欧米列強は、法制度や科学や軍事力を持って日本の前に現れた。発展途上の国民は先進国の生産様式を積極的に導入して遅れを取り戻したいと考える。しかしそもそも日本はいかなる国なのか? いかなる方向に日本を創り上げていくべきか? このことを考えないで無批判に欧米の文物だけを導入すれば、日本は日本でなくなる筈》

 西郷家の蔵書目録には『大英国志』『ナポレオン伝』『仏蘭西法律書』などの西洋書物が並んでいたというが、それと同時に孔子の東アジア的統治を思巡していたであろう西郷さんは「忠・孝・仁・愛」という国民的道徳法則を思巡していたのではないだろうか?

 儒教の「忠・孝」の概念は今でも日本社会に根深く残るが、「仁・愛」の概念はあるのだろうか? 西郷さんはこの時期日本人の「仁・愛」という概念の喪失を危惧していたのではないだろうか?

 「仁・愛」は天から与えられた自然の働きを万人に広めようとする道徳であり、それは時間と空間を超越するものである。そのように空想してみると、あの「敬天愛人」の認識も広がる。人が行う道は天から与えられたものであるのだから、学びの道は天を敬い人を愛することを目的として身を修めることにある。例えば「敬天」を「永遠」に、「愛人」を「意志」に置きかえるとキリスト教的な解釈にもなるしもちろん儒教道徳でもある。西郷さんはあの時代、日本人の「神」について考えていたのだろうか…

 あるとき、私は征韓論争から鹿児島に帰った西郷さんが、ジャン=ジャック・ルソーを読んでいたという記述を見つけおどろいた。中江兆民が『民約論』を翻訳したのは一八八二年で、一八七七年に死んだ西郷さんがそれを読める筈がない。西郷さんはフランス語の原文に接していたというのか? いくらなんでもそんな筈はない。ここから私の空想がはじまる。例えば村田新八が注釈し、二人で読書会のようなものを行っていた。

 吉之助は温泉に浸かりながら想つた…

 ―あたいどん日本人はいまこがん湯に浸かり受動的にじねんと一体化する民族や。ルソーちゅう人物は人間を自然状態と社会契約に分けた。ないによって分けたか? 理性によって分けよった。しかしあたいどん日本人は歴史んなかで理性ちゅうものをもたんかった。果たして我が国はただし方向へむこているのやろか?

 西洋帰りの村田が湯に入ってきた…

 ―西郷どん、あいどんが革命つ達したのは、一八世紀から能動的に光はじめた民衆の意志の力によりもす。意志とはなんじゃんそか? 意志とは啓蒙であり、理性であり、批判精神であり、共同体に対する社会的献身じゃっごちゃっ。西洋にはあたいどん日本人にはしいことのない理性の歴史がありもす。どしてん数千年に渡り体系的に築きあげてきた人間の精神の歴史と教養があっとです。とこいがあたいどん日本人はそげなことなんも知らずに外圧必然で緊ぽかっと外見だけ西洋化してしもた。宗教戦争のじでからすくなくても西洋が二百年の時をかけていた近代化をあたいどんはたった二年でいたっしもた。あたいどんの行いは正しかったのじゃんそか? あたいどんの外身と中身はそがましか矛盾を抱えているのではないじゃんそか? 外身の形式は内身の本質が決定しもす。とこいがこんままでは、あたいどん日本人は形式による抑圧でそん本質を決定されてしまう。斉彬皇は西洋を夢見もしたが、我が国に自由の女神はいなかとです!

 あのとき吉之助には、個として西洋へ行く道も残されていたのではいか…

 ―フランスの民権は自然・契約・権利・市民などん観念を言語化し下から回復された。とこいが我が国の民権は上から与えられただけじゃっ。ブルジョワは所有を求めて戦い、ナポレオン登場によりフランス革命はブルジョワ資本主義に適した社会をもたらした。しかし我が国にはブルジョワのよな中産階級がなか。我が国にあっとは武士と百姓ちゅう二層構造じゃ。我が国には資本主義がなか。フランスでは革命後一年間で四千をこゆっ政治結社が市民の手により作られたが我が国にはひとっもなか。ないごてなあ我が国には市民がおらん。我が国には西洋の民主主義ちゅう政治は根つかん。我が国はルソーのよな思想も理想も理念もなく、ただ外圧必然により革命のまねごっをしてしもた。あたやこん目で西洋を見なければいかん。

 しかし吉之助を思いとどまらせたのは、私学生たちの姿だった…

 ―あいどんは国学ちゅう単純な排外感情に頭を侵食されちょっ。こんまま己だけ西洋に逃れるこっがただし道なのか? 否、そいなあ己は斉彬氏がつくったこん郷土の共同体のなけある無意識を引きうけっ、象徴的に死のうじゃらせんか。そいが今ここで己がえっべき道や。己は最後まで己の生を全うしようじゃらせんか!

 子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。
 為政 第二 四

 四十九歳の西郷さんは天命を知った。

 一八七七年九月二四日に降り出した雨は、城山の血を洗い流した。あのとき西郷さんは、どのような日本の姿を観ていたのだろうか?

 もちろん、この記述はすべて私の空想であり虚言であり狂言である。狂言ついでにもう一言、歴史は持続しながら戯れているのだ。

 一八七七年に大日本帝国は生成され、一八四五年にサンフランシスコ体制は生成され、冷戦構造の終焉によってSMAPは解散した。

 来年を境に、日本という概念の生成にまたひとつ大きなズレが生じてくる。

 もちろん、それはたんなる狂言者の直観だ。私はいまだに西郷さんのことを好きになれない、ただの捻くれたペシミストである。

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