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『革命について』 第一章 革命の意味

カインはアベルを殺し、ロムルスはレムスを殺した。暴力ははじまりであった。暴力を犯さないでは、はじまりはありえなかった。
どんなに人間が互いに兄弟たりえようとも、それは兄弟殺しから成長したものであり、どんな政治組織を人間がつくりあげてきたにせよ、それは犯罪に起源をもっているのである。

理論面についていえば、おそらく新世界の植民地の豊かな条件の影響を受けて、まずロックが、ついでアダムスミスが、労働と労苦は貧困の俗性ではなく、貧困ゆえに財産なき者に押しつけられたこの労働はその反対に富の源泉であるとのべたとき、革命の舞台ができあがったのである。

解放(リベイション)と自由(フリーダム)が同じでないことはわかりきったことであり、解放のなかに含まれている自由(リバティ)という観念は、どう考えてもネガティヴの域をでない。

政治現実としての自由は、ギリシア都市国家の出現と時を同じくして生まれ、それは、市民が支配者と被支配者に分化せず、無支配関係のもとに集団生活を送っているような政治組織の一形態を意味し、この無支配(ノールール)という観念はイソノミアという言葉によって表現された。

都市国家は民主政ではなくイソノミアであると思われていた。
「民主政」という言葉は当時でも多数の支配を意味していたが、もともとはイソノミアに反対していた人びとがつくった言葉であった。彼らはこういおうとしたのである。「諸君たちのいう『無支配』なるものは、実際は別の種類の支配関係にすぎない。それは最悪の統治形態、つまり、民衆による支配(デモクラシー)である。」
イソノミアは平等を保証したが、それはすべての人が平等に生まれ平等につくられているからではなく、反対に、人は自然において平等ではなかったからである。そこで人為的な制度たる法すなわち法律によって人びとを平等にする都市国家を必要とし、平等は人びとが互いに私人としてではなく市民として会うこの特殊に政治的な領域にのみ存在した。
この平等の古代的観念と、今日の平等の観念、つまり人は生まれながらにして平等であり、社会的、政治的な人工の制度によって不平等にされているのであるという観念がどれほど異なっているか、いくら強調してもけっして強調しすぎることはない。
ギリシアの都市国家の平等、すなわちイソノミアは都市国家の属性であって、人間の属性ではなかった。人間はその平等を市民になること(シティズンシップ)によって受けとるのであって、その誕生によって受けとるのではなかった。
平等も自由も人間の本性に固有の質とは理解されず、そのいずれも、自然によって与えられ自然に成長するものではなかった。それは法律であった。すなわち約束ごとであり、人工的なものであり、人間の努力の産物であり、人工的世界の属性なのであった。
ギリシア人は、同輩者の間柄でなければだれも自由ではありえないと考えた。

ギリシアの政治思想において自由と平等との相互結合が強調された理由は、自由は、他人がそれを見、それを判断し、それを記憶している場合にのみあらわれ、現実のものとかるからであったが、この政治的自由を近代に移しかえて考え、革命家たちが、革命は自由を目的としていると主張したとき、彼らが心に描いていた自由(リバティ)は、欠乏と恐怖からの自由というわれわれ自身の主張もふくめ、本質的にネガティヴなものである。
それは解放の結果ではあるが、けっして自由の実際の内容ではない。自由の内容とは、あとで論じるように、公的領域への加入である。もし革命がただ公民権の保障だけを目的としていたなら、それが目的としていたのは自由ではなく、権力を濫用し、適切に設定された古い諸権利を侵害した政府からの解放だったのである。
われわれは暴力がまったく異なった統治形態を打ち立て、新しい政治体を形成するために用いられ、抑圧からの解放が少なくとも自由の構成を目指している場合にのみ、革命について語ることができるのである。

革命のような歴史的現象が実際に誕生した日を確定する一つの方法は、その時以来ずっとその現象に結びつけられている言葉が最初にあらわれた時期を見つけだすことである。
国民国家とか帝国主義とかのようなものについても、人間にとって新しい現象がそれぞれ新しい言葉を必要とすることは明らかなことである。
「革命」という言葉は、もともと天文学上の用語であり、天体の周期的で合法則的な回転運動を意味していた。
この運動は、人間の力を超えており、したがって抵抗できないものであることが知られていたので、もちろん、新しさとか暴力をその特徴としたものではなかった。
「革命」という言葉がはじめて、もっぱらその不可抗力性(前もって決定された軌道を通り、人間の影響力の範囲外にあるという事実)だけが強調されて用いられた正確な日をわれわれは知っている。
今日、革命を理解する場合、この強調は非常に重要なものに思われるので、この古い天文学的用語が新しい政治的意味を獲得した日を、この新しい使用法がはじまった時であるとするのが一般的である。
その日とは、一七八九年七月十四日の夜のことである。
この日の夜、ルイ十六世は、バスティーユが陥落し囚人が解放されたことや、民衆の攻撃の前にも国王の軍が敗北を喫したことなどを聞き、「これは反乱だ」と叫んだという。するとリアンクールは王の誤りを訂正した。「いいえ陛下、これは革命です」
この有名な対話は非常に示唆的である。この場合、革命という言葉が、依然として(政治的にこれが最後であるが)天空から地上へその意味を移しただけの古い比喩の意味で使われていることがわかる。しかし、ここでおそらくはじめてであろうが、その強調点が、周期的な回転運動の合法則性から、その不可抗力性に完全に移っているのである。
なるほど、その運動はまだ天体のイメージのなかでとらえられている。しかし、今や強調されているのは、その運動が人間の力では捕捉できないものであり、したがって、それ自身法則であるという点である。
ルイ十六世がバスティーユ襲撃は「反乱」であるとのべたとき、彼は権威にたいする挑戦を処理する権力を自分が持っていることを主張したが、これにたいしてリアンクールは、起こった事柄は取り返しのつかないものであり、一国王の力を超えているものだと返答したのであった。

はじめて広い日の光のなかにその姿をあらわしたこの虐げられた貧民の群衆はパリの街頭にあふれだし、このとき以来、もはや取り消すことのできなくなったことは、公的領域の空間と光が、日々の生活の必要に追われているがゆえに自由ではないこの無数の群衆に与えられなければならないということであり、群衆に与えられたこの公的領域は、記憶されているかぎりでは自由であった人々、すなわち日々の生活の必要や肉体維持のための必要物と結びついている心配事から解放されていた人びとのために取って置かれたものであった。

この不可抗力的な運動という概念は、十九世紀になるとすぐに歴史的必然という観念に概念化されるのであるが、フランス革命のページの最初から最後まで響きわたり、こうして突然まったく新しいイメージが古い比喩のまわりに群がりはじめ、まったく新しい語彙が政治用語のなかに取り入れられはじめた。
われわれが革命のというとき、ほとんど自動的に、この時代に生まれたイメージでそれを考えている。

活動と人間事象の領域を演者より観客の立場から描いたヘーゲル哲学は哲学を歴史哲学に変え、ナポレオンポナパルトを「運命」に変え、十九世紀と二十世紀にフランス革命の足跡をおった人たちは、自からを歴史的必然の代理人に変え、歴史の運動を弁証法的に展開する人たちは、地上に自由を樹立しようとするまさにその瞬間にそれに身を委ねなければならないという「自由と必然の弁証法」という近代思想の全体系のなかでももっとも恐ろしい逆説を展開した。
痛ましい事実であるが、フランス革命は悲劇のうちに終わりはしたものの世界史をつくり、他方、アメリカ革命は誇り高く勝利したものの局地的な重要性をもつにすぎない出来事にとどまったのである。
二十世紀に革命が政治の舞台に姿をあらわすときはいつでも、それはフランス革命の過程から引き出されたイメージのなかで考えられ、歴史的必然の観点から理解されたものであり、これらの革命を成し遂げた人びとの精神にいちじるしく欠けていたのは統治形態にたいする深い関心であった。ところがこのような統治形態への関心こそアメリカ革命の際立った特徴であり、フランス革命で群衆の光景に威圧されたロベスピエールが「共和制だって? 私の知っているのは社会問題だけだ!」と叫んだとき、彼らは「共和国の魂」(サンジュスト)である憲法もろとも、革命そのものを失ったのである。

ロシア革命の人びとがフランス革命から学んでいたことは、歴史であって活動ではなかった。彼らは歴史の偉大なドラマが自分たちに割り当てられる役ならどんな役でも演じる能力を身につけ、悪役以外に役がない場合でも、ドラマの外に残されるくらいなら、喜んでその役を引き受けたのである。
彼らは歴史によって愚弄され、歴史の道化となった。

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